Memorandum 2017 Nr. 3

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 33

 

 


選帝侯 (第33回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 32«
[Archiv / Memorandum 2017 Nr. 2]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1619 年 8 月 26 日に Bohemia 同盟の会議によって Bohemia 国王を廃位されたものの、その翌々日には Frankfurt am Main に於いて開催された帝国選帝侯会議に於いて、全会一致で神聖 Roma 帝国皇帝に選出された Ferdinand II. (1578-1637) は、その会議の後 9 月 9 日に同地に於いて挙行された戴冠式を終えて Wien への帰路の途中、Bayern 公国の首都 München に立ち寄り、前 Bohemia 国王で現在は皇帝となった Ferdinand II. に対する反乱を起こした Bohemia 連合の勢力、及びそれを支援するプロテスタント同盟に対する、皇帝側のカトリック諸侯の勢力を強化する為に、当地に於いて 10 月 8 日にカトリック連盟及び Bayern 公爵 Maximilian I. (1573-1651) との間に約定を結んだ。

 プロテスタント同盟の成立に対抗して、1609 年 7 月に結成されたカトリック連盟は、それ以来その連盟長をその実際の主導者 Maximilian I. が務めて来た。
その後次第に皇帝勢力がこの連盟に影響力を行使しようと試みる様になったが、Habsburg 家との密接な関係があると同時に、皇帝軍との繋がりも深いドイツ騎士団の総長 Austria 大公 Maximilian III. (1558-1618) との行き違いにより、Maximilian I. は 1616 年にカトリック連盟長を辞任し、それに伴って実質的にカトリック連盟は終焉を迎えていた。

 その翌年には München 連盟が、また 1619 年には Rhein 地域の連盟が改めて結成されたが、その両者の統合は 1619 年に Ferdinand II. が、個人的に両者の監理主導を Maximilian I. に勧めた事によって成立し、これによってカトリック連盟が再興出来る事となった。

 1619 年 10 月 8 日の München 協約に於いては、間近に迫る戦争を背景に、Maximilian I. のカトリック連盟に於ける無制限の主権が認められ、それ以後の連盟の主導に対する関与を皇帝 Ferdinand II. は放棄した。
交渉の自由に関してのみは若干の制限が加えられ、カトリック連盟が条約を締結する際には、Maximilian I. と Ferdinand II. の両者による了承が必要とされた。

 実際の軍事面に関しては、必要な費用の支払いを前提として Maximilian I. に対して、カトリック連盟軍としての 2,600 人の騎兵と 18,000 人の歩兵からなる、軍隊の組織が義務付けられた。
その支払いへの担保として、それ迄は Bohemia に与していた上部 Austria 領が、Bayern 公国に与えられる事となった。
但し元々がカトリック連盟に属する領域を守る為に必要となった軍隊に対する費用は、ここから除外されている。

 一方皇帝に対しては、Bayern 公国がカトリック連盟に対して、その規約に定められている拠出金を超えて戦争遂行の為に支払った費用全額を補償し、若しカトリック連盟軍が戦いに敗れて Bayern 公国の領地が一部でも失われた場合には、Austria 大公国の領地を以てこれを補う事が義務として定められた。
これ等に加えて書面には書き表されていない秘密条項として、新たな Bohemia 国王に即位した Pfalz 選帝侯 Friedrich V. (1596-1632) の追放の後には、その選帝侯位を Maximilian I. に移譲する事が Ferdinand II. によって約束された。

 この München 協約によって実質的にカトリック連盟が再興出来る事となり、また皇帝側に立つカトリック諸侯勢力による Bohemia の反乱軍、及び Friedrich V. に対する軍事攻撃が開始される事となった。
Friedrich V. のその後の運命を決定付けた、翌 1620 年 11 月 8 日の Praha 郊外の、Bílá hora (白い山) の戦いに於ける Bohemia 軍の決定的敗北によって、Bohemia の反乱軍は壊滅する。

 Bohemia に於ける勝利の後 Ferdinand II. は刑事法廷を開き、27 名が不敬罪で起訴されて処刑されている。
また Bohemia からプロテスタントの信仰を再び追い出す為に 3 万人に及ぶ家族を追放し、また 650 人の貴族の財産を賠償として没収し、戦費としてカトリック連盟に支払っている。

 一方 Pfalz の選帝侯領には既に 1620 年に、España 王国の Grande、Los Balbases 侯爵 Ambrosio Spinola Doria (1569-1630) の率いる軍が Flandern より進軍して、Rhein 左岸の Pfalz 領に侵攻していた。しかしその翌年には 11,000 人から成る駐屯兵を Pfalz に残して、本隊は再び Flandern に引き揚げた。

 更にその翌年の 1622 年初頭には、将帥の Braunschweig-Lüneburg 公爵 Christian (1599-1626) や、Mansfeld 伯爵 Peter Ernst II. (1580-1626)、及び Baden-Durlach 辺境伯 Georg Friedrich (1573-1638) に率いられたプロテスタントの軍隊が各方面から夫々 Pfalz を目指した。

 同年 4 月 27 日の Pfalz の世襲領地内の Mingolsheim (Ohrenberg) に於ける戦いで、Friedrich V. の下 Bohemia 王国の陸軍元帥であった Mansfeld 伯爵 Peter Ernst II. の率いるプロテスタント軍は、Heidelberg を目指して南から Pfalz に侵攻して来たカトリック連盟の総司令官、Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) の率いるカトリック軍との戦いに於いて、先ずは勝利を収める。
しかしそれ以降の戦いでは、プロテスタント側の軍は総兵力の数の点ではカトリック連盟軍に勝っていたものの、独立した夫々の軍隊が結束する事が出来なかったために、敗北を重ねていく事になる。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 34«
[Archiv / Memorandum 2017 Nr. 4]
へ続く

 

 


上部の写真:


Ferdinand II. の
神聖 Roma 帝国皇帝への
戴冠式

1619 年 9 月 9 日
Frankfurt am Main の大聖堂に於いて挙行


出版にも携わった銅版画家
Eberhard Kieser (1583-1631)
による銅版画

 

 

 

 

 

 

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