Memorandum 2017 Nr. 4

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 34

 

 


選帝侯 (第34回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 33«
[Archiv / Memorandum 2017 Nr. 3]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1620 年 11 月 8 日の Praha 郊外の Bílá hora (白い山) の戦いに続く Pfalz の世襲領地を巡る戦いでは、1622 年 4 月 27 日の Mingolsheim (Ohrenberg) に於ける戦いで、Mansfeld 伯爵 Peter Ernst II. (1580-1626) の率いるプロテスタント軍が先ずは大きな勝利を収めたものの、それに続く数箇月間でプロテスタント軍はカトリック軍に対して深刻な敗北を重ねる事になる。

 同年 5 月 6 日の Wimpfen の戦いでは、Baden-Durlach 辺境伯 Georg Friedrich (1573-1638) に率いられたプロテスタント側の Baden 軍は、先の Mingolsheim の戦いでは自身も負傷した Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632)、及び Maratra 侯爵 Gonzalo Fernández de Córdoba (1585-1635) に率いられたカトリック連盟と Bayern 公国、及び España 王国の連合軍に大敗し、壊滅状態に追い込まれる。

 またそれに続く 6 月 20 日の Höchst の戦いに於いては、Braunschweig-Lüneburg 公爵 Christian (1599-1626) に率いられた、既にこの前年の 4 月に解散していた嘗てのプロテスタント同盟の軍が、先月の Wimpfen の戦いと同様に、Tilly 伯爵及び Córdoba 将軍の率いるカトリック連盟軍に深刻な大敗を喫する。

 同年 7 月に入ると、国王 Friedrich V. の下 Bohemia 王国の陸軍元帥を務めていた、上記の傭兵将軍 Mansfeld 伯爵 Peter Ernst II. と、その陸将補で騎兵隊長であった Braunschweig-Lüneburg 公爵 Christian は、Los Balbases 侯爵 Ambrosio Spinola Doria (1569-1630) の率いる、España 王国軍によって包囲されている Bergen op Zoom の要塞の解放を目指していた、Nederlanden 連邦共和国陸海軍総司令官の Moritz von Oranien 侯爵 (1567-1625) を助ける為に、Nederlanden の北部を目指して移動を開始していたが、その途上 Fleurus に於いて Córdoba 将軍の率いる España 王国の軍隊に出会って戦闘となった。

 1622 年 8 月 22 日のこの Fleurus の戦いでは、辛うじて Mansfeld 伯爵 の率いるプロテスタント側の軍が勝利を収めはしたものの、多大の犠牲を払って得るものは殆ど無いという結果に終わった。
この年の夏以降 Pfalz 領の Rhein 河右岸全域は、カトリック連盟軍に占領される結果となった。

 一方帝国内では 1613 年に最後の議会が開かれて以降、帝国議会が開催される事が無かったが、帝国内に立ちはだかり益々広がる一方の宗教対立問題を、新たな帝国議会の開催で以て解決するのは困難であろうと皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) は考えた。
そこで Bohemia の戦争に於ける決定的な勝利以降明らかにその勢力を増強していた皇帝は、1622 年 7 月に新たに帝国議会では無い協議の場を持つ為に、Köln、Trier、Mainz、Sachsen と Brandenburg の各選帝侯、及び Braunschweig-Wolfenbüttel、Pommern、Hessen-Darmstadt、Bayern、Salzburg と Bamberg の各領主を Regensburg に招いた。
選帝侯の一人ではあったが Bohemia の戦争で敗北し、既にその前年に帝国平和喪失刑に処せられていた Pfalz 伯 Friedrich V. (1596-1632) は、この協議の場に招かれてはいない。

 その翌 1623 年初頭に、皇帝 Ferdinand II. は同じく Regensburg に於いて、帝国議会に議席及び議決権を有する諸侯による諸侯会議を招集した。
Ferdinand II. は既に前年の 11 月 24 日に Regensburg に到着しており、他の諸侯もそれに続いて早くから Regensburg に集まった。
実際の会議は 1 月 7 日に開始された。その会議で Ferdinand II. の目論んでいた中心課題は、1619 年 10 月 8 日に Ferdinand II. とカトリック連盟、及び Bayern 公爵 Maximilian I. (1573-1651) との間に München 協約が締結された際に、秘密条項として Ferdinand II. が Maximilian I. に約束した、Friedrich V. の追放の際のその選帝侯位の移譲であった。

 この秘密条項の内容が、今回の諸侯会議が開かれる以前に既に広く知られる事となり、また Bohemia 戦争終結後の同王国に対する、反プロテスタントの措置が計画されていた事等から、Sachsen と Brandenburg の各選帝侯は代理の使者を立てて一応会議には参加したものの、Hessen-Darmstadt を除くその他のプロテスタント諸侯はこの会議に参加しなかった。
その結果この諸侯会議は明らかにカトリックの勢力が優勢なものとなり、カトリックとプロテスタントの勢力の平衡化は望むべくも無くなった。

 十分な議論が行われた結果その妥協策として、一代に限って Pfalz の選帝侯位を Maximilian I. に移譲する事が 1623 年 2 月 23 日に決議され、その際に Friedrich V. の後裔への選帝侯位の返還は、定言的には否定しないとされた。
それ以外に上部 Pfalz は Maximilian I. の治める Bayern 公国に譲渡され、Rhein-Pfalz は帝国のカトリック側に与する España 王国の管理下に置かれる事となった。
同年 2 月 25 日に Maximilian I. に対して選帝侯位を授与する儀式が厳かに行われて、Regensburg の諸侯会議は閉じられた。

 この Regensburg の諸侯会議は、帝国内に於けるカトリック派の優勢を示すと同時に、それ以前よりも勢力を増した皇帝の立場をも同時に公に示す機会となった。
帝国法によって細部まで規定されていた、帝国会議やその他の諸侯の集まりとは違って、今回の諸侯会議の議事規則は、皇帝の宮廷によってこの会議の事前に定められたものであり、また会議に参加した諸侯を皇帝は意のままに操る事が出来た。
30 年戦争中に於ける皇帝権力の一つの頂点を示す機会となったこの諸侯会議は、同時に皇帝の絶対権力化へ向かう過程の特徴を示しているという点で、それへの重要な一つの歴史的段階と捉える事が出来る。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 35«
[Archiv / Memorandum 2017 Nr. 5]
へ続く

 

 


München 協約
に関しては
[Archiv / Memorandum 2015 Nr. 3]
を参照

 

 


上部の写真:


Regensburg に於いて
1623 年 2 月 25 日に行われた
Bayern 公爵 Maximilian I. に対する
選帝侯位授与式

 

 

 

 

 

 

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