Memorandum 2017 Nr. 5

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 35

 

 


選帝侯 (第35回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 34«
[Archiv / Memorandum 2017 Nr. 4]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1622 年には数々の戦いに於いて、カトリック連盟軍に対して深刻な敗北を重ねたプロテスタント軍であったが、その傭兵隊長の一人 Braunschweig-Lüneburg 公爵 Christian (1599-1626) は、翌年になるとプロテスタント側に属する地域の低部 Sachsen 帝国管区から、皇帝軍の優勢を崩す機会を狙っていた。
しかしその好機を Sachsen では中々見出せないと判断すると、その 15,000 人程の兵達と共に、彼の雇用主の Pfalz 選帝侯 Friedrich V. (1596-1632) とその妃の Elisabeth Stuart (1596-1662) が、1620 年の Bílá hora (白い山) の戦いで惨敗して以降、亡命生活を送っている Nederlanden 連邦共和国を目指して移動した。

 1623 年 8 月 6 日になるとこの Christian の軍と、それを追って来た Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) の率いるカトリック連盟軍が、国境を挟んで数 km の距離で対峙する事となった。
国境の町 Stadtlohn の北東凡そ 3 km の地点を戦場にしてその日に行われた戦いでは、Braunschweig-Lüneburg 公爵 Christian の軍が 15,000 人の総兵力の内、約 10,000 人が戦死又は捕虜になるという大敗を喫する。

 この戦いではカトリック連盟軍の方が数の上で優勢であったばかりでは無く、軍隊としての規律や特に戦闘経験の点では、明らかに Christian の軍に勝っており、その為に戦闘開始後間も無くカトリック連盟軍の優勢は明らかとなり、その凡そ 3 分の 2 の戦力を失うという Christian の軍の大きな戦力の損失を前にして、カトリック連盟軍の方からそれ以降の攻撃を放棄して終わるという様な戦いの結果になった。
Christian とその残った 5,000 人の兵達は、夜明けと共に何とか Nederland 側に逃げ延びる事が出来たが、その武器や軍事物資は全てカトリック連盟軍の手中に収まる事となった。
これ以後 Braunschweig-Lüneburg 公爵 Christian の軍隊は、カトリック連盟軍及び皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) の軍にとっても、真剣に考慮する必要も無い存在となった。

 一方 1623 年 2 月 25 日に、それ迄は Pfalz 選帝侯 Friedrich V. が保持していた選帝侯位を移譲、授与された Bayern 公爵 Maximilian I. (1573-1651) は、それと同時に担保として Maximilian I. に所有を認められた、嘗ての Friedrich V. の世襲領地で、その殆どがプロテスタントの地域になっていた上部 Pfalz に於いて、プロテスタントの弾圧と再カトリック化を進めた。
その後の 1628 年には同国に於いてカトリックが唯一の信条であると宣言されている。
この再カトリック化への取り組み方は、Habsburg 家の領内に於いても行われていたものと似た様なやり方で進められ、またそれを実際に担ったのが Jesus 会士達であったというのも同様であった。
これ等の措置に対しての執拗な抵抗がある場合には、その町に軍隊が駐留して、最終的には抵抗を軍事力によって挫折させ従わせるという方法が採られた。

 カトリック連盟軍を率いて数々の大きな功績を挙げて来た、Brabant 公国出身の Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes は、その兄の Jakob T’Serclaes de Tilly (1555-1626) と共に、1622 年 9 月 22 日に帝国伯爵に叙されている。
また上記の Stadtlohn の戦いの翌 1624 年の 5 月 2 日には、カトリック連盟を率いていた Bayern 公爵 Maximilian I. が、それまで領地を保有していなかった Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes に対して、上部 Pfalz 内の Preitenegg と Breitenbrunn を封土として与え、それ迄の数多くの功績に報いている。
この両方の領地は後の 1635 年に、帝国伯爵領 Breitenegg としての認可を、皇帝 Ferdinand II. から得ている。

 Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes とその軍隊は、その後先ずは低部 Sachsen 帝国管区内に留まり、そこで福音派や Luther 派に属する教区や修道院をカトリックの教会に戻し、また Jesus 会士の活動を支援する等のカトリックの復旧を、武力で以て速やかに推進しようとした為に、低部 Sachsen 帝国管区内の町々をその後の戦いに駆り立てる事となった。
Tilly 伯爵は Münden を包囲してその傭兵達が略奪に及んだり、また Göttingen では町を包囲し、砲撃を行って身代金を強請し、また Harz 山地に住む人々を従わせる為には、Leine 河の流れを変えてその地域への水の供給を断つ等をして、数々の町と地域を征服して再カトリック化を強く推し進めた。
これ等の包囲戦は 1626 年 8 月初旬には大体終了し、Tilly 伯爵は成功裏に一旦その軍事行動を収める事となった。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 36«
[Archiv / Memorandum 2017 Nr. 6]
へ続く

 

 


上部の写真:


Stadtlohn の戦い

戦いが行われた 3 年後の
1626 年に制作された
腐食銅版画

 

 

 

 

 

 

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