Memorandum 2017 Nr. 6

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 36

 

 


選帝侯 (第36回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 35«
[Archiv / Memorandum 2017 Nr. 5]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 低部 Sachsen 帝国管区は 1625 年初旬に、その母親の血筋から Schleswig 公爵及び Holstein 公爵という帝国の爵位を保持している、Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) を Kreisobrist (帝国管区長) に選出した。
Christian IV. がこれを以て期待されたのは、低部 Sachsen 帝国管区をカトリック連盟の攻撃から守り、プロテスタントの活動を支援する事であった。
これに続いて低部 Sachsen 帝国管区会議は Christian IV. の強い求めに従って、管区内の全般的な防衛力を高める為に、独自の軍隊を募るという決定を行った。
この決議によって Denmark 王国の軍隊は帝国管区の軍隊という名目で投入され、管区内に自由に侵入出来るという結果になった。

 低部 Sachsen に進軍した Christian IV. の率いる Denmark 王国軍は、1626 年 6 月中旬に Elbe 河を渡ったが、7月には Hameln で Weser 河を超えて、低部 Sachsen 帝国管区外の領域に迄侵入している。
一方その頃、1624 年に France 王国、Denmark 王国、Nederlanden 連邦共和国と共に大同盟を組んだ England の国王で、Pfalz 選帝侯 Friedrich V. (1596-1632) の義父に当たる、Scotland 及び England と Irland の国王 James I. (1566-1625、Scotland 国王としては James VI.) に雇われた、傭兵隊長の Mansfeld 伯爵 Peter Ernst II. (1580-1626) の軍が、James I. の命令によって Nederlanden 連邦共和国から低部 Sachsen へ向かっていた。

 Christian IV. は先ず Mansfeld 伯爵の軍と共に、最初は Thüringen、その後にはドイツ南部を目指した出兵を計画する。
これによって Christian IV. が目的としたのは、Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) の率いる、カトリック連盟軍によって支配されている低部 Sachsen の解放、またそのカトリック連盟軍と、1625 年 6 月 27 日に皇帝の訓令によって帝国大元帥の地位を与えられ、これによって全皇帝軍に亘る無制限の指揮権を与えられた、Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) の率いている皇帝軍との乖離、そして Hessen の掃討とその占領であった。

 1626 年の夏に Christian IV. とその軍隊は、低部 Sachsen 南東部の Wolfenbüttel に達していた。Tilly 伯爵の率いるカトリック連盟軍を低部 Sachsen より追い出す為に、Christian IV. はそこから更に南進し、その結果同年 8 月 16 日に Northeim に於いて両軍は出会う事になる。
しかし Christian IV. の軍の方が優勢なのを見て取ると、Wallenstein の率いる皇帝軍の援軍を待つ為に、Tilly 伯爵は一旦 Nörten-Hardenberg 迄後退する。

 Christian IV. はそもそもこれより先に Wallenstein の軍を壊滅させようと考えていたが、その進路を見誤ったために失敗しており、丁度その頃 Wallenstein の率いる皇帝軍は、Nörten-Hardenberg から東北東へ凡そ 50km 程の、Blankenburg 迄進軍して来ていた。
そこで Christian IV. は守りの堅牢な Wolfenbüttel 迄一旦退却し、そこで両軍に対する戦いを有利に進めようと考えた。しかしその退却の最中に Christian IV. の軍は激しい攻撃を受ける事になる。

 同年 8 月 25 日に Stauffen 城に於いて、退却する Christian IV. の後衛軍と Tilly 伯爵の前衛部隊との交戦が行われたが、そこで Christian IV. の軍は少なからぬ打撃を受け、Tilly 伯爵に激しく追撃されている Christian IV. は、そこから北北東に 20km 程の Lutter am Barenberg (低部 Sachsen 帝国管区の南東部に位置する Salzgitter の南西凡そ 10km) 郊外の野外で、全軍をまとめて展開せざるを得なくなる。
Harz 山地の麓に位置するその Lutter 盆地に於いて、1626 年 8 月 27 日の朝 10 時頃から、Tilly 伯爵の率いるカトリック連盟軍と、Christian IV. の Denmark 王国軍との戦いが行われた。

 最初は優勢に見えた Denmark 王国軍であったが、Wallenstein の率いる皇帝軍が Lutter に近づいて来ているという知らせが届いた事から、Christian IV. 自身が指揮を執っていた左翼軍を一旦引き下がらせようとした。そこをカトリック連盟軍の 2 つの連隊が攻撃を仕掛け、その頃から形勢は一気に逆転して、Denmark 王国軍は恐慌状態に陥って分散した。
その歩兵の一部は Lutter am Barenberge 近くの Lutter 城に迄逃走し、そこでの防備戦に備えようとした。しかし間も無く Lutter 城は Tilly 伯爵の軍に包囲封鎖されて砲撃を受けると、立て籠もった凡そ 2,000 人の兵士達は降伏して捕虜となった。

 その後勝利が明らかとなったカトリック連盟軍の中でも、Kroatia の騎兵部隊による敗走兵の追撃や殺戮は、日が落ちる迄止む事が無かった。
同時に敗残兵への略奪も行われて、戦場に残された Denmark 王国軍の大砲 20 門は、カトリック連盟軍に収奪された。
戦いの終盤に国王 Christian IV. は、自分の周りに 300 人の貴族達による騎兵を集めて防備し、その内凡そ 50 人程の騎馬隊と共に、戦場より逃走する事に成功した。
Christian IV. が自身の宮廷のある、低部 Sachsen 北端の Stade に帰り着く迄には、その後更に 1 箇月程を要した。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 37«
[Archiv / Memorandum 2017 Nr. 7]
へ続く

 

 


上部の写真:


Lutter の戦い

 

 

 

 

 

 

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