Memorandum 2017 Nr. 7

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 37

 

 


選帝侯 (第37回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 36«
[Archiv / Memorandum 2017 Nr. 6]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) の率いる Denmark 王国軍の惨敗となった、1626 年 8 月 27 日に行われた Lutter の戦いでは、双方の合計で約 40,000 人の兵士達が戦い、当時の記録に拠れば Denmark 王国軍の戦死者は凡そ 4,000 人で、捕虜となった者が凡そ 2,500 人、Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) の率いるカトリック連盟軍側の戦死者数の記録については、200 人から 4,000 人と大きな幅があるが、何れにしても Lutter の戦いは 1553 年の Sievershausen の戦いと共に、低部 Sachsen に於いて行われた最も悲惨な戦闘となった。

 これに先立つ 1625 年に Christian IV. は 14,000 人の兵士を募集しており、その年の 3 月に Lüneburg に於いて開かれた、自身が Holstein 公爵として議決権を有する低部 Sachsen 帝国管区会議に於いて、更に 14,000 人の軍隊の財源負担と、彼自身をこの時点で空席となっていた管区長に選任する事を求めて働き掛けた。
そもそも戦争を望んでいなかった管区会議では、Christian IV. の組織する軍隊は帝国管区の防衛にのみ務めて、管区の領域外へ出る事は禁止するという条件を付けて Christian IV. の要求を認め、彼を帝国管区長に選出した。
この管区会議の決定いよって Denmark 王国軍は、低部 Sachsen 帝国管区の軍隊としてその領域内に進軍出来る事になった。

 一方 1624 年から 1625 年の前半に掛けて皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) は、財政難が原因で軍隊の兵員数を大きく削減せざるを得ない状況にあった。その中で残された数少ない連隊も、連隊に必要とされる戦力には遠く及ばない数の兵士達しか残す事が出来なかった。
そこで Bayern 公爵 Maximilian I. (1573-1651) は皇帝に対して、新たに兵士を募集して、少なくとも残っている連隊だけでも戦闘可能な状態にしてはどうかと呼び掛けたが、Ferdinand II. は財源難からこの無理な要求を拒否している。

 1625 年の 2 月に皇帝の宮廷の軍備は最弱点に達する事になるが、こういう大変厳しい状況の下その年の 1 月に、Bohemia の軍人で Friedland 侯爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) が Wien の宮廷に現れ、最短の時間内に決して遅延する事無く、そして自己の資金によって、15,000 人の歩兵と 5,000 人の騎兵による合計 20,000 人規模の軍隊を、Wallenstein 自身が編成するという申し出を Ferdinand II. に対して行った。
その言葉はそのままには到底信用されず、本当に 20,000 人の男達を扶養する事が出来る状態にあるのかと質問された Wallenstein は、「20,000 人どころでは無く 50,000 人でも出来る」 と答えたと伝えられている。

 この Wallenstein による突然の申し入れについて協議する、Wien の枢密顧問官会議がこの後数箇月間に亘って続く事になるが、Ferdinand II. は同年 4 月 7 日に、Wallenstein を帝国内の全皇帝軍の指揮官でその長に任命する布告を発布する。但しこの時の布告では Wallenstein に対して軍隊を編成する権利は未だ認められていない。

 軍隊の編成によって新たな戦争を誘発する事にならないかという点で、Wallenstein の申し出に対してためらいがちな宮廷軍事会議と、特にその議長の Collalto 伯爵 Rambold XIII. (1579-1630) との交渉と協議は、更にその後同年 6 月迄継続されたが、枢密顧問官の多くは Christian IV. の率いる Denmark 軍による帝国への攻撃は恐らく行われるであろうと考えており、それへの備えを準備するべきだと考えていた。

 その後同 1625 年 6 月 13 日に、Wallenstein は皇帝より戦争遂行の訓令を受け取る。
嘗て Ferdinand II. が Frankfurt am Main で行われた、自身の皇帝への戴冠式の帰途立ち寄った Bayern 公国の首都 München に於いて、1619 年 10 月 8 日に Ferdinand II. とカトリック連盟、及び Bayern 公爵 Maximilian I. との間に結ばれた協約では、皇帝の軍隊はカトリック連盟の軍隊を補助するのみだと、Ferdinand II.と Maximilian I. との間で約束されていた。

 しかしこの所謂 München 協約に反して、今回の Ferdinand II. の発した訓令により Wallenstein は、カトリック連盟軍の全将官の上位に位置する事になり、またこの訓令と同日付けで Wallenstein が Moravia 辺境伯領の Nikolsburg に於いて、Friedland 公爵に昇格された事も相俟って、Maximilian I. が Bayern 選帝侯であるという点だけを除外すれば、Maximilian I. との関係に於いても Wallenstein は殆ど同格の地位を占めるという事になり、カトリック連盟軍の指揮権に於ける Wallenstein の従属性は、これを以て実質的に終焉するという結果になった。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 38«
[Archiv / Memorandum 2017 Nr. 8]
へ続く

 

 


上部の写真:


Ferdinand II. が
神聖 Roma 帝国皇帝として在位していた頃の
Wien の宮殿の正門


Wien の宮殿はその後増築が繰り返されて
大規模なものになったが
この最初の正門は
現在の宮殿の中心部に位置する
Suisse 翼への門として残っている

 

 

 

 

 

 

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