Memorandum 2017 Nr. 8

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 38

 

 


選帝侯 (第38回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 37«
[Archiv / Memorandum 2017 Nr. 7]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1624 年に入ると France 国王 Louis XIII. (1601-1643、国王在位 1610-) の発起によって、France 王国、England 王国、Denmark 王国と Nederlanden 連邦共和国の間で、名目上は皇帝に対して帝国内諸侯の古くから認められている権利の保全を目的とした、大連合関係が成立している。しかしこの大連合の本来の目的は、España 王国を含む Habsburg 家の覇権に対抗するというものであった。
これは後の 1625 年 12 月 19 日に Den Haag に於いて、Denmark 王国、England 王国、Nederlanden 連邦共和国及び帝国内のプロテスタント派諸侯が加わって結成された同盟へと繋がる事になるが、その目的は Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) の指揮の下に各国の支援による軍隊を維持し、皇帝とカトリックの勢力に対して北部ドイツのプロテスタント領の保全を図るというものであった。

 その為に Christian IV. は、プロテスタント側に属する低部 Sachsen 帝国管区がその費用の大半を負担する、30,000 人の軍隊で足りると約束した。
彼はこの軍隊によって同時に、彼と対立関係にある Sweden 国王 Gustav II. Adolf (1594-1632) に対抗出来ると考えたが、彼が 1624 年以来これ等の国々との連合関係を結び、帝国の広い範囲を戦場とする事になる宗教戦争に参加しようとしたそもそもの目論見は、この機会を利用して Elbe 河流域を獲得し、息子の Friedrich (1609-1670) の為に低部 Sachsen の Bremen、Verden、Osnabrück 等と、司教管区の Münster 及び Halberstadt の行政管理権を手に入れる事であった。
これ等の諸都市の内 Osnabrück と Münster は低部 Sachsen では無く、低部 Rhein-Westfälen 帝国管区領に属する。

 その為に Christian IV. は早速、低部 Sachsen 帝国管区内で自身の采配に任された軍隊を使って、既に 1625 年 6 月中旬には Elbe 河を渡って、低部 Sachsen の Verden や Nienburg を占領し、それに続いて当初帝国管区会議から与えられた、低部 Sachsen の防衛のみをその務めとして管区領域外には決して進出しないという条件を無視し、7 月には Hameln に迄進んでそこで Weser 河を超え、それによって低部 Sachsen 領を西に出て、低部 Rhein-Westfälen 帝国管区領に侵入して行った。

 一方これ等の Christian IV. による帝国領への侵攻をある程度予測はしていたが、深刻な財政難からそれに対する有効な軍隊の組織が出来ない状態にあった Wien の宮廷に、自身の財力によって軍隊を組織して皇帝と帝国を援助するという申し出をする、 Friedland 侯爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) が現れ、その後 Wien では何箇月にも亘る枢密顧問官会議を経て、1625 年 6 月 13 日に Wallenstein は皇帝より戦争遂行の訓令を受け、これによってそれ迄は Bayern 公爵 Maximilian I. (1573-1651) の指揮下にあった、カトリック連盟軍の将官に対する Wallenstein の従属した立場は終わりを告げる事になる。

 しかしこの時点に於いては、当初 Wallenstein が皇帝に提言した、彼自身の財力による新たな軍隊の組織は未だ許可されていない状態であったが、既にこの時から Wallenstein は軍隊組織の準備に一層加速して取り掛かっている。
同年 6 月 27 日になって遂に皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) は Wallenstein に対して 24,000 人規模の軍隊組織の訓令を発した。
これに加えて帝国内各地から参加する連隊によってこの軍隊は更に補強されるものとし、実際にこの年の末頃 Wallenstein の指揮する軍隊は、50,000 人の規模に迄膨れ上がっている。

 この 1625 年 6 月 27 日の訓令に於いて同時に皇帝は Wallenstein に対して、宗教上はプロテスタントを信仰していても皇帝に忠節な帝国民は保護されるべき事、宗教が直接の原因となって武力を行使するという印象は予め避けるべき事、また兵士達に対しては、もしそうでなければ軍隊は容易に単なる略奪集団に陥ってしまうので、厳格な規律を保持すべき事等が指示され、またもしそれが Wallenstei にとって利益があると判断し、同様に皇帝の為にもなると思うなら、カトリック連盟軍を率いる Bayern 公爵 Maximilian I. に対して、良き助言を求める事を Ferdinand II. は Wallenstein に勧めている

 Bayern 公爵 Maximilian I. は、神聖 Roma 帝国に於いて指令兼を有する将官としての中将の位にあったが、この 6 月 27 日の皇帝の訓令によて Wallenstein は、指令権を持つ将官に対する指令権も含めた、無制限の最高司令権を有する、帝国内で唯一の位である大元帥に任じられた事になる。
Habsburg 王朝の支配下では、中将は 17 世紀に於いて最高位の将官であったが、Wien の宮廷軍事顧問官会議には従属する立場にあった。これに対して大元帥は中将に対する指令権も持ち、また宮廷軍事顧問官会議に従属する事無く、唯一人そこから独立した権限を保障された存在であった。
Habsburg 王朝の下では、大元帥位が任命される場合には通常、中将位は空位のままにされるのが普通であったが、この時は Maximilian I. が先に中将位を占めていたため、両者が併存する例外的な状況となった。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 39«
[Archiv / Memorandum 2018 Nr. 1]
へ続く

 

 


上部の写真:


Wallenstein の注文により
Giovanni de Galliano Pieroni (1586-1654) によって
1623 年から 1630 年に掛けて
Praha に建設された宮殿


Bohemia の初期 Barock 様式による


Giovanni de Galliano Pieroni は
建築家であると同時に
要塞建築を専門とする軍事技師
また数学学者及び天文学者で
Galileo Galilei (1564-1642) や
Johannes Kepler (1571-1630)
と親交を結んだ


現在この宮殿は
Czech 共和国上院議会
の所在地として使用されている

 

 

 

 

 

 

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