Memorandum 2018 Nr. 1

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 39

 

 


選帝侯 (第39回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 38«
[Archiv / Memorandum 2017 Nr. 8]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1625 年 6 月 27 日付けの皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) の訓令によって、Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) には 24,000 人規模の、当初彼が皇帝に提言をした自己の資金に基づく軍隊の組織を許可され、またカトリック連盟軍を指揮する Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) の上位に立つ、無制限の最高司令権を有する帝国内で唯一の位である、大元帥位が彼には与えられた。

 この時 Wallenstein が組織する 24,000 人規模の軍隊は、帝国内各地から参集する連隊によって更に補強されるものと、この時の訓令で示されていたが、既にこの年の年末には Wallenstein の指揮する軍隊は実際に 50,000 人規模に迄大きく膨れ上がっている。
Wallenstein が皇帝に 20,000 人規模の軍隊の組織を申し出た折に、本当にそれだけの人数の軍隊を扶養する事が出来るのかと質問された際の、Wallenstein の返答は誇張では無く、彼は実際にそれだけの資産を有していた。
しかしそれが 50,000 人の規模に迄大きくなると、どの様にしてその男達を養い、それに加えて俸給を支払う事が出来るのかというのが、現実的な問題として浮上して来る。

 Wallenstein はそれに対して、扶助料として出資者を広く募って資金を捻出するという方法や、1622 年 1 月 18 日から 1623 年 2 月 16 日迄の期間、皇帝 Ferdinand II. より Bohemia、Moravia と Austria 内の鋳貨権を 6,000,000 Gulden で租借した一人で、当時皇帝の財務を担っていた宮廷の金融業者 Hans de Witte (1583-1630) より、皇帝が後に返済してくれるであろう事を信じて、資金を借りるという事等をして対処した。

 しかしこの様な大編成の軍隊に安定して継続的な扶助料を確保するには、これ等の一時的な資金だけでは不十分で、その為に Wallenstein は、戦争で負けた占領地域の住民に対して占領分担金という名目で税金を賦課するという、それ以前に既に良く知られていた課税の方法を基に、これを根本的に変更するという事を考えた。
彼は世襲領地も含む全ての帝国内の全帝国民より、戦争税としての軍税を定期的に徴収するという事を直ちに始めるという提案を、Wien の宮廷に対して行った。
この Wallenstein の大胆な提案は、皇帝の金庫が殆ど空に近い状態であったという状況から速やかに受け入れられ、早速訓令としての起草が行われた。

 但しこの新しい制度は、Wallenstein の率いる軍隊に税金という名目で、自由な掠奪や利得を許したものでは無いので、その課税額は軍隊を維持するのに必要なだけの額に制限するという事が定められている。
Wallenstein は彼の発案によるこの軍税の制度が、元来の目的である通り継続的に機能するには、被徴収民の経済的な疲弊を回避し、常に彼等に顧慮を以て対する事が必要であるという事は十分に承知していた。
そして各部隊長は何よりも先ず彼等自身を始めとして、部隊内の規律を厳格に維持し、その傭兵達による掠奪は厳しく禁じるという事が、当然その為の前提条件となる。

 この軍税は最初に先ず皇帝の世襲領地からの徴収が実施され、それを担当したのは皇帝の宮廷官房であった。
それ以外の帝国領、及び Wallenstein の公国内での徴収に関しては、彼自身がそれを担う事となった。

 1625 年 7 月末頃迄に、14 に及ぶ連隊兵の勧誘は終了している。その結果実際に参集したのは Bohemia から 5 連隊、その他の地域から計 10 連隊で、何れも Wallenstein の指揮下に配属される事となった。
この時に傭兵の徴兵検査を統括したのは、宮廷軍事顧問官であった Johann von Aldringen (1588-1634) で、彼は徴兵の際に各連隊を組織する為の基礎となる一つ一つの管区を設定し、人数が多くて大変面倒な事になる事が十分に予測され、その為にそれにも耐え得るであろうという観点から、大抵は帝国都市に徴兵検査所を設置して、僅か 4 箇月の期間内に 50,000 人以上になる新たな軍隊を組織する事に成功している。

 その年の 8 月になると Wallenstein は、その新しく編成された軍隊を以ていよいよ帝国内での行軍を開始し、8 月末には低部 Sachsen 帝国管区のほぼ南端に位置する Göttingen に至る。
そこから更に北進して 10 月 13 日には Hannover の南に於いて、同年 7 月に低部 Sachsen 帝国管区域を西へ超えて、低部 Rhein-Westfälen 帝国管区領に侵入した、Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) の軍を、再び低部 Sachsen 帝国管区域へ押し戻す事に成功した、Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) の率いるカトリック連盟軍と合流している。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 40«
[Archiv / Memorandum 2018 Nr. 2]
へ続く

 

 


このページ上部の写真:


Friedland 公爵 Wallenstein


銅版画

1628 年制作

 

 

 

 

 

 

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