Memorandum 2018 Nr. 2

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 40

 

 


選帝侯 (第40回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 39«
[Archiv / Memorandum 2018 Nr. 1]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1625 年 10 月 13 日に Hannover の南に於いて、新たに組織された 50,000 人以上の規模になる軍隊を率いる、Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) と、Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) の軍隊を再び低部 Sachsen 帝国管区域へ押し戻す事に成功した、カトリック連盟軍を指揮する Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) が出会っている。
しかしその後低部 Sachsen 帝国管区域内の Nienburg an der Weser の包囲戦に失敗した Tilly 伯爵は、再度 Wallenstein に合流し、両者の軍隊のその冬の駐屯地として、Wallenstein は Magdeburg と Halberstadt の司教管区を、Tilly 伯爵は Hildesheim と Braunschweig の近郊に留まる事が取り決められた。

 これによって当初より、息子の為にこの司教管区の行政管理権を手に入れようとしていた Christian IV. の目論見は、一旦抑え込まれる事になった。
この年の秋から翌年に掛けての冬の季節の間に、低部 Sachsen の帝国管区民と皇帝軍側の将軍達との間で交渉が執り行われている。この期間に Christian IV. の軍隊は、England 王国及び Nederlanden 連邦共和国からの援助を得て、38,000 人の規模に迄膨らんでいた。
この両者の 4 箇月間に亘る接触が何ももたらす事が出来ないまま、1626 年 3 月 8 日に Christian IV. はその交渉を断念する。

 この間 1626 年 1 月に Wallenstein の軍は、Elbe 河中流域の戦局上の有利な場所への移動を開始している。
Mansfeld 伯爵 Peter Ernst II. (1580-1626) や、また Christian IV. に率いられた軍隊が北部から南下して Elbe 河を超え、Schlesia や Bohemia を目指して進軍するのを防ぐ為に、宮廷軍事顧問官の Johann von Aldringen (1588-1634)、及び宮廷軍事顧問官会議長の Collalto 伯爵 Rambold XIII. (1579-1630) の両元帥に率いられた連隊が、Elbe 河に面する Dessau 及び Roßlau で Elbe 河に掛かる橋を占領し、更に Elbe 河右岸の東側の岸に橋頭堡としての防塁を建設し、左岸の西側にも更なる砦を建設した。
この時 Wallenstein は未だ Aschersleben に置かれた皇帝軍の本営から動く事は無く、皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) より許可された、彼の軍隊を 60,000 人規模に迄増員する為の誘致活動を率いていた。

 皇帝軍側との交渉が決裂すると、Mansfeld 伯爵 Peter Ernst II. は、Siebenbürgen 侯爵 Gábor Bethlen (ca. 1580-1629) との合流も目論んで、Brandenburg 選帝侯領に於いて凡そ 12,000 人からなる部隊を組織し直し、そこから Schlesia を目指して南下する軍事行動をいよいよ開始する。
その行軍の行程で Denmark 軍の Fuchss 将軍の率いる軍が、Mansfeld の軍隊を補強する予定であったが、同年 4 月初頭に騎馬戦で Fuchss は Wallenstein に打ち負かされており、北へ退却せざるを得ない状況となっていた。
その間 Mansfeld は Elbe 河に沿って南下を続ける途中、Magdeburg 城の占領には成功したが、それ以降 Denmark 軍による支援を得る事は叶わず、それでもElbe 河の渡河とそこからの南下を強行しようと企てていた。

 その頃凡そ 20,000 人の規模に迄膨らんでいた Mansfeld の軍は 1626 年 4 月に、要塞化されていた Dessau の Elbe 橋の橋頭堡に現れ、それに対峙して大砲を備えた砦を建造したり坑道を掘らせたりして、Dessau に於ける Elbe 渡河を真剣に企てた。
Elbe の渡河という点に限れば他にも可能性のある場所が更に南方に幾つかあるだけに、この時に Mansfeld がどうして Dessau の橋の攻撃に固執したのかは明らかでは無いが、1625 年 6 月 27 日付けの皇帝の訓令に於いて帝国初の大元帥に任じられた Wallenstein に敗北をもたらす事によって、その頃次第に不安定になって来ていた将帥としての自分の名聞を、再度打ち立てようと試みたのかも知れない。

 しかし Wallenstein は確かにこの時点では、未だ軍事上の経験が全く無いという状態ではあったが、彼は与えられた最初の機会を生かす事を十分に意識した先見の明のある周到な計略者であって、来る戦いに於いて将帥としての名望を確立し、Wien の皇帝の宮廷内に根強く存在する、彼への敵対者達に対して反駁する機会を狙っていた。

 この時点では未だ Wallenstein は Aschersleben の本営に留まって、Christian IV. の率いる Denmark 軍への攻撃の準備をしており、Dessau の橋頭堡防衛の司令官には Johann von Aldringen を指名していた。
Johann von Aldringen は十分な軍事経験を有しており、彼の下には 2 つの連隊が配属されていたが、兵力の点だけに限っても既にこの時の皇帝軍は、Mansfeld の率いる軍に対して明らかに優勢な立場にあった。
それにも拘らず Aldringen は橋頭堡の防備を更に固め、86 門の最新式の大砲をその守りの為に準備し、それ等を壕と要塞の中に巧みに隠して、実際の数よりも十分に少なく見える様にして配置する等、Mansfeld の軍を迎え撃つ為の周到な準備を行っていた。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 41«
[Archiv / Memorandum 2018 Nr. 3]
へ続く

 

 


上部の写真:


Friedland 公爵 Wallenstein の
紋章

 

 

 

 

 

 

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