Memorandum 2018 Nr. 3

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 41

 

 


選帝侯 (第41回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 40«
[Archiv / Memorandum 2018 Nr. 2]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 帝国大元帥の Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) より Dessau の司令官に任じられた、Wien の宮廷軍事顧問官で皇帝軍の徴兵給付及び宿営弁務長官を務めていた Johann von Aldringen (1588-1634) による、Dessau の橋頭堡防衛の為の周到な準備によって、Mansfeld 伯爵 Peter Ernst II. (1580-1626) が Dessau に到着して早速企てた、Dessau の Elbe 橋への攻撃は完全に失敗に終わる。

 また夜間の出撃も辞さなかった巧妙な防衛戦によって、Aldringen はその後何日間にも亘って橋頭堡の防衛に成功する。
その間何度も Aldringen は Wallenstein に支援を要請していたが、それでも次第に困難になって行く戦況を鑑みて、Wallenstein は遂に残っていた全皇帝軍を率いて、Dessau を目指して行軍を開始し、1626 年 4 月 14 日に全軍が Dessau に到着する。

 4 月 25 日の朝に Mansfeld 伯爵は、橋頭堡防衛軍への突撃を改めて決行する事を決意し、Dessau に於ける両軍の最終的な戦いが行われる事となった。
その戦闘は当時としては異例に長く、6 時間も続いた。
しっかりと防備を固められた皇帝軍の陣営に対する、Mansfeld 伯爵の軍による攻撃は全て撃退される。
それに次いで、Elbe 河の西岸に配置されていた皇帝軍の砲兵部隊による、Mansfeld 伯爵の率いる部隊の左翼への砲撃に援護されて、Wallenstein の指揮する皇帝軍が橋頭堡から出て、いよいよ Mansfeld 軍への反撃が開始された。

 明らかな劣勢から Mansfeld 伯爵が全軍に既に退却の命令を発していた時、それ迄木立の中に隠れていた Heinrich Schlik zu Bassano und Weißkirchen 伯爵 (1580-1650) の率いる胸甲騎兵部隊が、Mansfeld 軍の側翼を狙った攻撃を開始し、その不意打ちによって Mansfeld 軍の組織だった退却は最早不可能となり、単なる無秩序な荒々しい逃亡と化してしまった。

 それに先立って、その日の午前中の戦闘が一時休止した合間に、Wallenstein は Heinrich Schlik 伯爵の連隊を、Mansfeld 伯爵の軍に気付かれない様にして橋頭堡から密かに抜け出させて、木立の中に隠れさせておくという周到な計画が実行されていた。
挙句の果てには Mansfeld 軍の火薬積載車が爆発を起こし、Mansfeld 伯爵の部隊は皇帝軍に周囲を完全に包囲されて退路を断たれたと勘違いして、既に大混乱に陥っていた状態は更にひどくなるばかりの惨憺たる結果となった。

 Wallenstein はその日の日没になる迄 Mansfeld 伯爵の追討を続けて Zerbst に迄至ったが、翌日に更なる追跡を続ける事はせず、 Aschersleben の皇帝軍の本営に戻った。
この戦いでは当初凡そ 12,000 人規模であった Mansfeld 軍の内、高位の将官や士官、隊長達も含む 3,000 人から 4,000 人の兵士達が戦死し、凡そ 1,500 人が捕虜として捕らえられた。
これ等の捕虜達はその後に、その時代の軍事上の規則に従って、Wallenstein の軍隊に組み入れられる事となる。

 この Dessau の戦いに於ける功績によって Johann von Aldringen と、Heinrich Schlik zu Bassano und Weißkirchen 伯爵には、皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) より褒状が与えられている。
Wallenstein にとってはこの戦いが初めての軍事上での成果となり、それを彼は皇帝への手紙の中で誇らしげに報告している。
これに対して Wien の宮廷に於いては、Wallenstein がこの時の勝利を生かして、Mansfeld 伯爵をこの機会に最終的に討滅しなかった事を咎める見解が生じた。

 しかし Wien の宮廷が主張する様なその先の展開に対して、Wallenstein は懐疑的に考えており、十分とはとても言えない軍隊の糧食状況と、兵士達の不穏な差し迫る反乱の危険性の中、Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) の軍隊に脅かされ乍ら、中部ドイツを進軍する事の危険性を十分に認識しており、それを Wien の宮廷から非難された Mansfeld 伯爵追討拒否の根拠付けとしている。

 Wallenstein が最後迄で追い詰める事をしなかった Mansfeld 伯爵の方は、Dessau での惨敗からその後とても早く回復する事になる。
彼は Dessau から無防備な Brandenburg の地域を目指して逃避行を続け、そこで Denmark 人と Scotland 人の兵士達、及び Sachsen-Weimar 公爵 Johann Ernst I. (1594-1626) の軍から部隊を作り直し、Brandenburg 選帝侯国の Altmark に 6 週間滞在しただけで、Dessau の戦い以前とほぼ同規模の軍隊を立て直す事に成功している。

 一方 Johann von Aldringen は Wien の宮廷に対して、彼の Dessau の戦いに於ける戦功を強調した内容の書簡のやり取りをしているが、それは宮廷に認められて彼にはこの時の功績によって、男爵位が与えられる事となった。
彼と宮廷とのその様なやり取りを知った Wallenstein は、Aldringen が貧しい下層階級の出身である事や、Luxemburg 公国の地方行政役所の書記に過ぎなかった事等から、彼を軽蔑的に 「三文文士」 と呼んで非難している。
Aldringen はこの Wallenstein による嘲笑的な評言をその後決して許す事は無く、これがこの時より 8 年後の出来事へと繋がって行く事になる。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 42«
[Archiv / Memorandum 2018 Nr. 4]
へ続く

 

 


上部の写真:


Dessau の戦いの様子を伝える
腐食銅版画

1626 年

 

 

 

 

 

 

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