Memorandum 2018 Nr. 4

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 42

 

 


選帝侯 (第42回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 41«
[Archiv / Memorandum 2018 Nr. 3]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1626 年 4 月 25 日の Dessau に於ける戦いで惨敗に追い込まれ、戦場から逃走した Mansfeld 伯爵 Peter Ernst II. (1580-1626) を、皇帝軍の大元帥であった Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) は、その日が暮れる迄は追跡したものの翌日以降はそれを止めて、それ以上 Mansfeld 伯爵を追討する事はしなかった。

 Wallenstein はその後 Mansfeld 伯爵の再興に注意を向け乍らも、当然次に予想される Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) の主力部隊からの攻撃をかわす事に専念しようとしていた。
しかし Wallenstein が率いる皇帝軍の傭兵達への糧食、及び彼らに支払う報酬の不足から、実際に攻撃を仕掛ける事はしなかった。

 既にその前年の秋以来、Wien の宮廷より届く筈の皇帝軍への報酬は大抵約束の期限よりも遅れ、その金額も不足していたし、また糧食に関しても同様であった。その為にその年の秋から冬の季節に掛けて Wallenstein は、自身の財産から傭兵達への報酬を支払い、領地の Friedland 公爵領からの食物によって軍隊を養った。
Wien の宮廷からの未払い金が合計 100,000 Gulden もの額に達し、また Wallenstein に皇帝軍の全指揮権を与え、その軍を組織する許可を与える事に反対していた、宮廷軍事顧問官会議長の Collalto 伯爵 Rambold XIII. (1579-1630) とのその後の確執も加わって、Wallenstein と Wien の宮廷との間の緊張関係は高まっていた。

 Wallenstein は北から迫る Christian IV. の軍を攻撃する為に、カトリック連盟軍と合流して Elbe 河に沿って北上するという事を、この年の 6 月にカトリック連盟軍を率いる Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) と約束していた。しかし Tilly 伯爵はその約束を破棄して Göttingen に駐屯した為に、Wallenstein は無駄にカトリック連盟軍を待ち惚ける事になり、更にその翌月には皇帝軍の財政状況がひどく悪化して、Wallenstein は自身が率いる軍隊への命令もままならない状況に陥ってしまう。

 Deaasu の戦いの後 Brandenburg 選帝侯国に迄逃走し、そこで十分に休養回復して軍隊を編成し直した Mansfeld 伯爵 Peter Ernst II. が、反 Habsburg 家勢力の叛乱軍の首謀者の一人、Siebenbürgen 侯爵 Gábor Bethlen (ca. 1580-1629) と合流し、その後合同で Wien を攻撃する為に、その軍を率いて Silesia 地方に向おうとしているという情報が Wallenstein の元に届いた。
Wallenstein は 7 月 13 日になっても尚、カトリック連盟軍との共同の行軍の為に Tilly 伯爵を待ち惚けていたが、この時には素早く反応し、殆ど壊滅状態から凡そ 20,000 人の兵力に迄戻った Mansfeld 伯爵の軍を追討する事を、7 月 16 日には決心していた。

 Mansfeld 伯爵の率いる軍は同月 21 日に Silesia に至り、そのすぐ後に Wallenstein の軍に属する 6,000 名の Croatia 軽騎兵部隊もそこに到着している。
しかし Wallenstein 軍の主力部隊の方は、既に Mansfeld 軍を討伐出来る状態にあったにも拘らず、カトリック連盟軍を率いる Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes、及びカトリック連盟を主導する Bayern 公爵 Maximilian I. (1573-1651) によって、Wallenstein の部隊の大部分はカトリック連盟軍の支援の為に出撃せずに留まる様に要求された事を考慮して、その出撃を躊躇していた。

 もし Wallenstein の軍がカトリック連盟軍の要求に従って北部ドイツに留まるならば、Wien を始めとする Habsburg 家の世襲領地を大きな危険に晒す事になる。一方 Mansfeld 伯爵の軍を追って移動すれば、北から Christian IV. の軍がいよいよ南進して来るという、困難な窮地に Wallenstein は陥る事となった。
これに対して Wien の宮廷は、Mansfeld 伯爵が既に Schlesia に移動しているという事実には無頓着に、彼を帝国領内に於いて討伐すべきという要求を発するばかりで、この窮地脱出の問題を解決する為の Wallenstein の判断の助けとなる様な事は一切行わず、全ての責任を Wallenstein に転嫁しようとしていた。

 既にその間 Schlesia 西部の Głogów に迄移動していた Wallenstein は、同月 27 日に Mansfeld 伯爵を追って配下の軍を移動させる事を決心し、8 月 8 日に行軍を開始する。
その直前には漸く皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) が、Mansfeld 軍の追撃を許可するという事を決定していた。
Wallenstein はその折に軍を 2 つに分割して、自らは 14,000 人の部隊を率いて Mansfeld 伯爵の追討に向かい、それ以外の部隊は Braunschweig 及び Lüneburg 公爵 Georg (1582-1641) に託して駐留する事とした。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 43«
[Archiv / Memorandum 2018 Nr. 5]
へ続く

 

 


上部の写真:


Holland の画家
Michiel Janszoon van Mierevelt (1567-1641)
による
Wallenstein の
肖像画

 

 

 

 

 

 

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