Memorandum 2018 Nr. 5

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 43

 

 


選帝侯 (第43回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 42«
[Archiv / Memorandum 2018 Nr. 4]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 Siebenbürgen 侯爵 Gábor Bethlen (ca. 1580-1629) の率いる軍と合流する為に、Bohemia 王国を経由して Hungary 王国への進軍を目指し、ひいては帝国首都 Wien の攻撃を狙っている Mansfeld 伯爵 Peter Ernst II. (1580-1626) の軍を追撃するのか、或いはカトリック連盟軍の要求に従って、Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) の率いる軍から低部 Sachsen 及び北部ドイツを守る為に留まるかのという、困難な選択を迫られた Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) は、皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) による許可を受けて漸く、20,000 人規模であった Mansfeld 伯爵の軍を追撃する事を決心した、

 但しその折に Wallenstein は自身の率いる皇帝軍を 2 つに分割し、Braunschweig 及び Lüneburg 公爵 Georg (1582-1641) に託して駐留する事とした部隊以外の、14,000 人からなる軍を自らは率いて、Mansfeld 伯爵の追討の為の行軍を 1626 年 8 月 8 日に開始した。
Silesia を経由して Hungary 王国を目指すこの行軍は、Wallenstein が自身で誇らしげに手紙に書いている様に、嘗て前例の無い速さで進められ、既に 30 日足らず後の同年 9 月 6 日には、800 km 余りの長い距離を移動して、Moravia と Hungary 王国との国境に迄達している。

 その間に Mansfeld 伯爵の軍も Hungary 王国を目指して南下を続けていたが、彼が当てにしていた Siebenbürgen 侯爵 Gábor Bethlen の軍は、その領地の Transylvania (現在は Romania 共和国の一部) に依然留まっているという知らせが届き、両軍の Silesia に於ける合流は全く見込みが無いという状況になった。そのために Mansfeld 伯爵は、それ迄頼りとしていた両軍の合流は最早不可能だと判断し、それ以降は何とかその実現を目指そうとする試みも諦めて全く行わなくなった。

 一方 Wallenstein の率いる皇帝軍の方は、同年 9 月 9 日に Slovakia 西部の Frašták (Hlohovec) に至り、疲労困憊した挙句に兵員数の大きく減少してしまった部隊の保養の為に、そこに宿営を設ける事にした。Frašták に至る迄の行軍の間に皇帝軍では、消耗、食糧不足と病気が原因で、3,000 人にも及ぶ兵士達が死亡していた。
その宿営には、Wien の宮廷軍事顧問官会議が事前に承諾していたにも拘らず、食料や物資の備えが全く用意されておらず、兵士達の叛乱を危惧した Wallenstein は早速それを Wien の宮廷に訴えているが、早急に必要な補給をする為に、彼は自身の領地の Friedland 公国に於けるそれ迄の未払い金を回収し、その費用を以て 31,000 袋の穀物を手配する事を領地の施政官に指示し、また兵士達の装備と弾薬類を自身の費用を以て調達した。

 同年 9 月 18 日に Wallenstein は、包囲戦に晒されていた Hungary 王国領の Neograd (Nógrád) を目指して宿営地を出発するが、戦闘無く包囲軍は退却して Neograd は解放される。
同月 30 日に Wallenstein の率いる軍と Siebenbürgen 侯爵 Gábor Bethlen の軍が初めて対峙する事となったが、Gábor Bethlen は直ちに Wallenstein に休戦を申し入れ、全く皇帝軍との戦闘を行う事無く、その日の夜の内にこっそりと軍勢を引き揚げた。
Wallenstein は軍事顧問官会議の勧めに従って、Gábor Bethlen の軍をそれ以上追う事はせず、皇帝軍は元居た Frašták の宿営に戻った。

 これに続く暫くの期間両軍の間での決定的な戦闘が行われるという事は無く、それぞれの軍勢が移動し乍ら個々の町の包囲や占領を行っていた。その間にも Wallenstein の軍では食糧不足の状態が改善される事は無く、パンの不足や、十分に育っていない作物の摂取に拠る栄養不足も重なって、軍内では赤痢が発生した。
Wallenstein は Wien の宮廷軍事顧問官会議の無能力を身を以て体験し、元々彼が考えていた様に、皇帝の帝国領内に於ける支配力が決定的に確立されない限りは、Hungary への遠征は全く無意味だという事を確信した。

 一方 Mansfeld 伯爵の軍も、当初の目的であった皇帝軍や帝国領への攻撃が出来る様な状態では最早無く、Wallenstein の率いる皇帝軍と同様に、食糧不足、疲労困憊と消耗によって多くの兵力を失っていた。
そこで Mansfeld 伯爵は、補償金と引き換えに残った兵力を全て Gábor Bethlen に託し、新たに軍を編成する為の資金調達を目的に、船で Venezia 共和国に渡る事を考えて、Adria 海に面する Dalmatia 地方の海岸 (現在の Croatia 共和国の一部) を目指した。

 自身も疲労消耗して病んでもいた Mansfeld 伯爵は、彼の下に残った少人数の兵達と共に、同年 11 月 5 日に Hungary 王国の嘗ての首都の Esztergom を出発して Bosnia に迄到達したが、そのほぼ中央部で Sarajevo の西方に位置する、山間の小さな村の Rakovica に於いて、結核が原因の大量の喀血により、11 月 29 日から翌日に掛けての晩に亡くなる。
その最後の時に Mansfeld 伯爵は遺言を口述する事は出来たものの、それに署名をする余力は最早残されておらず、彼の侍医と連隊長の一人が証人としてそれに署名しており、翌 1627 年初頭になって、その遺言を執行する為に Venezia にもたらした 3 人の Mansfeld 軍の士官達によって、更にその認証が行われている。
Mansfeld 伯爵の遺体は、当時 Venezia 共和国領であった Dalmatia 地方の Spalato (現在は Croatia 共和国内の 2 番目に大きな町 Split) の近くの島に葬られたと伝えられている。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 44«
[Archiv / Memorandum 2018 Nr. 6]
へ続く

 

 


上部の写真:


Esztergom

1241 年迄 Hungary 王国の首都であった


Jacob Hoefnagel (1573 – ca. 1632)
の原画に基づく
Georg Braun (1541-1622) と
Frans Hogenberg (1535-1590) による
彩色銅版画

1595 年制作

 

 

 

 

 

 

Bemerkungen sind geschlossen.