Memorandum 2018 Nr. 6

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 44

 

 


選帝侯 (第44回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 43«
[Archiv / Memorandum 2018 Nr. 5]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 Bohemia 王国を経由して Hungary 王国へ進軍し、そこで Siebenbürgen 侯爵 Gábor Bethlen (ca. 1580-1629) の率いる軍と合流した後に、帝国首都 Wien の攻撃を狙っていた Mansfeld 伯爵 Peter Ernst II. (1580-1626) を追討する為に、Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) が皇帝軍を率いて行軍を開始した 1626 年 8 月 8 日の半月程後に、当初 Mansfeld 伯爵の軍と共に Thüringen 及びドイツ南部への進軍を計画していた、Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) の率いる Denmark 王国軍と、Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) の率いるカトリック連盟軍との戦いが行われた。

 1626 年 8 月 27 日に Harz 山地の麓に位置する Lutter 盆地に於いて行われたこの戦いは、Denmark 王国軍の惨敗という結果に終わり、Christian IV. はかろうじて戦場からの逃走には成功したものの、凡そ 4,000 人の戦死者と 2,500 人の捕虜、及び大砲等の装備を含む多大な損失を被った。
一方この戦いが 18 回目の戦勝となった Tilly 伯爵には、皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) と法王 Urban VIII. (1568-1644, 在位 1623-1644) より、謝辞及び褒詞の書面が贈られている。

 Lutter の戦いに於いて大敗を喫した Christian IV. は、躍起になって自身の部隊を再び戦闘可能な状態に再興する事を目指したが、それは France 王国と England 王国からの援助を受け、翌 1627 年 4 月になって 13,000 人の部隊が新たに編成されて漸く叶う事となった。
同様に Wallenstein も Mansfeld 伯爵を追討する為の Hungary 王国への遠征から帰還した後、1627 年 1 月に夫人の Elisabeth (自称 Isabella) と娘の Maria Elisabeth を伴って、領地 Friedland 公国の居城があった Jitschin へ戻り、そこから新たに軍隊の編成を組織した。

 この間 Wallenstein に対してはカトリック連盟から、その前年に皇帝 Ferdinand II. より既に認められていた、新たな軍隊編成の為の兵員公募による皇帝軍の兵力増強に対する反対や、また彼よりも身分の上で上位にある選定諸侯の地位とその権利を奪おうとしているという等の抗議が起こった。
これに加えて 1627 年初頭には、Wallenstein が率いる皇帝軍の行動と軍税の負担に対する訴えが Wien の宮廷にもたらされた。その訴えに対して Ferdinand II. は、夏の軍事行動が開始される前に評議会を開催する事にし、Wallenstein は気の進まないその会議への招集に従ったが、そこでの評議は既に前年に皇帝より認められていた、Wallenstein の指揮する軍隊の 70,000 人迄の規模拡大が再度 Ferdinand II. から認められるという、彼にとっては大変満足の出来る結果に終わった。

 Bohemia 王国東部の Silesia 地方では、この前年に Wallenstein が追討に向かった Mansfeld 伯爵の軍が、Hungary 王国を目指して南下した際に通過しており、その時に一部そこに残された Mansfeld 伯爵の部隊や、またこの年の 1 月には前年末に Mansfeld 伯爵が亡くなった後、その部隊の残党が Silesia に戻って元から残っていた部隊と合流し、この頃 Silesia 地方は彼等に占領された状態となっていた。
更にそこに新たに編成し直された Christian IV. の Denmark 王国軍の一部も加わり、Silesia 地方全体では合計で凡そ 14,000 人の軍隊が、Denmark 王国軍の指揮下に展開していた。

 こういう状況であった Silesia 地方を先ず解放しようと考えた Wallenstein は、1627 年 6 月 10 日に総兵力が今や 100,000 人の規模に達していた彼の指揮下にある皇帝軍の内の 40,000 人を率いて、Silesia の南西端に近い Neiße に到着し、征戦はそれから間も無い同月 19 日に開始された。
これによってそれ迄 Silesia 地方の各町を占領状態にしていた、それぞれの孤立した小編成の部隊にとっては最早絶望的な状況となったが、Christian IV. 自身が指揮する Denmark 王国軍は、Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes の率いるカトリック連盟軍によって帝国領内に束縛されており、Silesia に援軍を送る事は全く出来ない状態にあった。

 Wallenstein は個々の町に於ける攻城戦が長引いて、Silesia 地方に長期的に留め置かれる事を避ける為に、それぞれの町を占領していた部隊に、降伏して町を明け渡せば退却途上の安全は保障するという提案を行う。
幾つかの町ではそれにも拘らず、Wallenstein の率いる大軍に対して無駄に抵抗を試みるという事もあったが、翌月の 7 月末には Silesia 地方の全ての町が Denmark 王国軍下の占領状態から解放され、皇帝軍は 8 月 2 日に Neiße へ向けて帰還の行進を開始した。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 45«
[Archiv / Memorandum 2018 Nr. 7]
へ続く

 

 


Lutter の戦い
に関しては
[Archiv / Memorandum 2017 Nr. 6]
を参照

 

 


上部の写真:


居城のあった Jitschin の Zebín の丘の麓に
Wallenstein は保養地区を営造した

そこに保養と芸術を目的として建設された
„Loggia”


現在では美術展や文化的催物がここで定期的に開催されている

 

 

 

 

 

 

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