Memorandum 2018 Nr. 7

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 45

 

 


選帝侯 (第45回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 44«
[Archiv / Memorandum 2018 Nr. 6]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1627 年 6 月 19 日に進軍を開始した Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) の率いる皇帝軍は、翌 7 月末には Silesia 全域を凡そ 14,000 人の Denmark 王国軍の支配から解放する事に成功し、8 月 2 日には Silesia 地方の南西端に近い Neiße に向っての帰還の行進を開始した。
帝都の Wien に於いては、この予想を遥かに超える Wallenstein の速やかな戦勝に対して、嘗て長い間見られる事の無かった程の盛大な歓喜の声が上がった。

 この Wallenstein による Silesia への遠征が行われていた間、Hans Georg von Arnim-Boitzenburg (1583-1641) の率いる皇帝軍の先遣部隊が、既に Brandenburg 辺境伯領に向って進軍を開始していた。
この Hans Georg von Arnim-Boitzenburg は Brandenburg 選帝侯の式部長官を父親として生まれた、生涯に亘って Luther 派の信仰を保持した軍人で、それ迄に Sweden 国王 Gustav II. Adolf (1594-1632) や、また対 Osmân 帝国との戦争では Poland 国王及び Lithuania 大公 Sigismund III. Wasa (1566-1632) に仕えたが、1624 年からは皇帝軍に加わって Wallenstein の指揮下にあり、早速この翌年の 1628 年 4 月には元帥の称号を得て皇帝軍の指揮権を手にしている。

 一方 Silesia 遠征を成功裏に終えて帰還した皇帝軍を Wallenstein は 2 つの部隊に分割して、騎兵の 10 連隊をこの年の 6 月 2 日に元帥位に昇格された Heinrich von Schlick 伯爵 (1580-1650) に委ね、自身は 14,00 人の部隊を率いて北部への進軍を早速 8 月 7 日に開始した。
上記の Hans Georg von Arnim-Boitzenburg の率いる皇帝軍の先遣部隊は、同年 8 月 13 日に Mecklenburg-Güstrow 公国の国境に達し、更に Baden-Durlach 辺境伯 Georg Friedrich (1573-1638) が率いる Denmark 王国軍の主力部隊が退却して駐屯していた Neubrandenburg へ向かって行軍を続けた。
しかし Denmark 王国軍はそこで皇帝軍との戦闘に踏み切るつもりが無く、更に Balt 海沿岸を目指して北西に向かい、Poel 島に落ち着いた。

 Wallenstein の率いる部隊も北方への行軍を速やかに続け、同年 8 月 21 日に Brandenburg 辺境伯領の Cottbus に達した。8 月 28 日には同じく Perleberg に至り、その翌日には嘗ての居城を Mecklenburg 公爵 Johann Albrecht I. (1525-1576) が改築して建造していた、Mecklenburg 公国の国境にある Dömitz の要塞を陥落させる。

 一方 Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) の率いるカトリック連盟軍の方も、Denmark 王国軍側に加担していた Bohemia の Thurn 伯爵 Heinrich Matthias (1567-1640) に率いられた軍が、珍しく戦いに消極的な姿勢きを見せて、神聖 Roma 帝国領内で最北端に位置し、Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) が同時に公爵として統治していた Holstein 公国に退却した事もあって、順調に北へ向かっての進軍を続けており、この頃 Elbe 河に面する Sachsen-Lauenburg 公国の Lauenburg をその駐屯地としていたが、同じく Lauenburg に向かった Wallenstein とその軍は、同年 9 月 1 日にそこで Tilly 伯爵の率いるカトリック連盟軍と合流する。

 その翌日の 9 月 2 日に Wallenstein と Tilly 伯爵は Christian IV. に対して和平案を提案するが、その条件を受け入れる事が出来ないとして、Denmark 及び Norway 国王に拒否される。そこで Wallenstei と Tilly 伯爵の両軍は Christian IV. を最終的に討伐する為に、9 月 6 日に更なる北方への進軍を開始するが、両軍はその後短期間の間に Denmark 王国軍の支配する数多くの町々を陥落させ乍ら北進を続ける。
その間 Tilly 伯爵が戦闘で負傷するという事があり、カトリック連盟を主導していた選帝侯の一人で Bayern 公爵 Maximilian I. (1573-1651) の憤激を招いたものの、Wallenstein がカトリック連盟軍の指揮権をも得る事となった。

 この両軍隊は更に Denmark 王国領を目指した進軍を急速に進めて、10 月 18 日には既に大陸に展開していた全 Denmark 王国軍が壊滅状態に追い込まれる事となった。
Christian IV. 自身は何人かの家臣に随伴されて、かろうじて Denmark 王国領の Zealand 島に逃げ帰る事が出来た。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 46«
[Archiv / Memorandum 2018 Nr. 8]
へ続く

 

 


上部の写真:


Dömitz の要塞


公爵 Johann Albrecht I. (1525-1576) によって
Mecklenburg 公国の南西の国境及び Elbe 河への渡河を守る為に
1559 年から 1565 年に至る間に城を改築して建造された


5 つの堡塁を持つ 5 角形の要塞は
Italia 人建築家の Francesco a Bornau の設計に拠る

 

 

 

 

 

 

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