Memorandum 2018 Nr. 8

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 46

 

 


選帝侯 (第46回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 45«
[Archiv / Memorandum 2018 Nr. 7]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1627 年 9 月 1 日に Lauenburg に於いて合流した Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) の指揮する皇帝軍と、Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) の率いるカトリック連盟軍はそこから更なる北方への進軍を開始し、それから 1 箇月余りの短期間に集中された戦いを経て、翌 10 月 18 日には大陸に展開していた全 Denmark 王国軍が壊滅状態に追い込まれる事となり、それを率いていた Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) の敗北は決定的なものとなった。

 Christian IV. に対する戦勝によって漸く帝国内に平和が訪れるという希望がもたらされたが、その際に Wallenstein は皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) に対して、Christian IV. との間に和平を結ぶ際に、Christian IV. が受け入れ難い様な要求を控え、それよりも彼が面子を保つ事が出来、帝国の将来の為にも両者にとって正当で建設的な和平を結ぶのが重要だという事を進言している。
そしてそれによってこれまで Christian IV. に対して戦って来た大きな軍事力を全て、次第に迫り来る Osmân 帝国の勢力から Austria 大公国及び神聖 Roma 帝国を守る為に注ぐ事が出来るという事を考えており、その為にも Christian IV. との速やかな和平の締結を求めているが、この時の Wallenstein の判断が的を得たものであった事はその後の歴史が示している。

 同年 11 月 19 日に Praha の北東の近郊に位置する、1581 年に皇帝 Rudolf II. (1552-1612) によって国王の宮廷都市に昇格された Bohemia 王国の Brandeis (Brandýs nad Labem) に於いて、皇帝 Ferdinand II. と Wallenstein はそれ以降の軍事行動に関して話し合う為に会っている。
その際に Ferdinand II. は Wallenstei に対して、帝国の最上位の臣下に相当する名誉を以てその戦功を讃え、それに加えて Denmark の王位も彼に与えようとしたが、Wallenstein は将来に迄亙る確実性の少ない王位よりも別のものをという理由でそれを辞退している。

 それの代わりとして翌 1628 年 1 月 19 日に Brandýs 城に於いて公布した證書によって、Ferdinand II. は Adolf Friedrich I. (1588-1658) と Johann Albrecht II. (1590-1636) の両 Mecklenburg の公爵を廃位し、Wallenstein がそれ迄彼個人の資産から調達して来た皇帝軍の維持の為の戦費を Ferdinand II. が彼に返済する迄の抵当として、Wallenstein に Mecklenburg 公爵位を与えた。
これは更にその翌年の 1629 年 6 月 16 日に、Wallenstein の終生並びにその子孫に迄亘る世襲領地として、Mecklenburg 公国が彼に与えられている。

 1628 年 2 月に Mecklenburg 公爵となった Wallenstein には更に同月、„General des Ozeanischen und Baltischen Meeres” (海洋及び Balt 海提督) の称号と、また Sagan 公爵位が与えられている。
これによってそれ迄侯国であった Sagan は公国に昇格される事となった。

 この間に既に決定的な敗北を喫する事となった Christian IV. であったが、尚彼にとって最終的な敗北の危機を脱する為に、今一度海洋から大陸側への攻撃を企てたが、Balt 海に面した Pommern の Usedom 島からその対岸の Wolgast を攻撃した戦いに於いて、彼はその最後に幾らか残っていた部隊をも全て失う結果となった。

 一方 1627 年の秋に Wallenstein は、公的には Pommern 公国に属す一方 Hanse (Hansa 同盟) の一都市でもあり、殆ど自立した都市となっていた Balt 海の南岸に面する Stralsund に対して、皇帝の大権と都市領内に於ける皇帝軍の駐屯地の設営を認める様、議会に対してその説得を平和裏に進めていた。
Wallenstein は北方の諸都市の財政力及び経済的な力が、それ以降の戦局に於いて早急に必要とされる事を熟知していたので、北方の都市の中でも特に Hanse に属する諸都市を、Wallenstein と帝国に対して好意的で中立な立場に導くというのが彼の最終的な目的であったので、Stralsund との間の友好的な合意を求めており、都市の自由に関してはそれを制限する様な意図は全く持っていなかった。
従って Wallenstein はその交渉を慎重に進めてはいたが、その要求は Stralsund の議会によって最終的には拒否される結果となってしまった。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 47«
[Archiv / Memorandum 2019 Nr. 1]
へ続く

 

 


上部の写真:


Güstrow 宮殿

Wallenstein は
16 世紀から 17 世紀に掛けての時期に
Mecklenburg 公爵の第 2 の居城であった
Güstrow 宮を自身の居城とし
彼が戦闘に赴いていない時にはここで過ごした

当時の Renaissance 様式に基づく建築が広範に残されている
北部地域の貴重な宮殿

 

 

 

 

 

 

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