Memorandum 2019 Nr. 1
Über Österreich und Wien
Kurfürst
Teil 47
選帝侯 (第47回)
»Kurfürst Teil 46«
[Archiv / Memorandum 2018 Nr. 8]
より続く
Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。
Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) が 1627 年の秋に、Hanse (Hansa 同盟) の一都市の Stralsund に対して求めた、皇帝の大権と都市領内に於ける皇帝軍の駐屯地設営の認可は、Wallenstein が Stralsund の自由に関しては全く保証し、その交渉を慎重に進めたにも拘らず、最終的には市の参事会から拒否される結果となる。
翌 1628 年初頭に当時皇帝軍の武将であった Hans Georg von Arnim-Boitzenburg (1583-1641) の率いる部隊が、Stralsund の市民及び参事会に圧力を掛ける為に市の周囲に参集していたが、改めて Wallenstein と Arnim-Boitzenburg によって提示された妥協案も参事会によって再度拒否される。
そこで Wallenstein は同年 5 月初旬に、軍事力を以て Stralsund に皇帝の大権を認めさせる為に、更に皇帝軍の 15 の連隊を Stralsund に派遣する事にし、同月中旬より Arnim-Boitzenburg による Stralsund の市壁への砲撃が開始された。
Stralsund は市域の三方を Balt 海と湖沼に囲まれており、籠城戦には有利な状況ではあったが、市の参事会はそこで Denmark 王国及び Sweden 王国の両国王に対して、市の防衛戦の為の援助を嘆願する事とし、特に Sweden 王国との間にはそれ以後 20 年間に亘る同盟条約が締結されている。
その時点では 1,500 人の Stralsund の徴兵とそれに加えて更に 1,000 人の兵が、凡そ 8,000 人から成る Arnim-Boitzenburg の率いる軍と対峙して、当時凡そ人口が 20,000 人であった Stralsund を守る事となったが、同年 5 月 25 日に Denmark 王国からの援軍が Stralsund に到着し、それが直ちに Stralsund 側の全部隊の指揮を担う事となった。
Wallenstein が援軍を率いて Stralsund に到着する前に、Stralsund を占領してしまおうと考えた Arnim-Boitzenburg による最初の攻撃から、この Stralsund 軍は市を防御する事に成功する。
同年 6 月 26 日に Friedland 公国の居城があった Jitschin から Wallenstei が Stralsund に到着すると、再び参事会との間に頻繁な交渉が開始され、同月 14 日に Stralsund の参事会は皇帝軍に対する降伏を認めたが、市民達の投票によって否決される。
しかし Stralsund を公的にはその領地とする Pommern 公爵 Bogislaw XIV. (1580-1637) が、Stralsund は皇帝に対する忠誠を守り、Wallenstein による要求を全て受け入れる事を補償した為に、Wallenstein は Stralsund からの撤退を決心する。
Stralsund からの援軍の要請を契機として、Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) の率いる、8,000 人の兵士達を乗せた 100 隻の船団が Stralsund の対岸の Rügen 島に近づいて来た頃、Wallenstein は Stralsund からの撤退を開始した。
Wallenstein の Stralsund からの撤退の後、この Christian IV. の軍は Sweden 王国軍と交代し、Sweden 王国軍は Stralsund に入城し、その間に締結された同盟条約に基づいて Stralsund を Sweden 王国領として併合した。これ以後 1814 年に至る迄の間、Stralsund は Sweden 王国の辺境の町として留まる事になる。
一方前年の 10 月に大陸から完全に追討された Christian IV. の率いる Denmark 王国軍は、その後再興を狙ってこの時に Stralsund の対岸に位置する Rügen 島へ近づいており、先ずはその島への上陸を企てていたが、これは Stralsund から撤退した Wallenstein とその皇帝軍によって阻止される。
Rügen 島への上陸に失敗した Christian IV. はその後海上を南へ移動し、大陸への足掛かりを見出す為に、Pommern 公国の Usedom 島からその対岸の Wolgast を攻撃し、短期間そこを占領する事には成功するが、その後間も無くこの年の 9 月 2 日に、Wallenstein によって Wolgast は Denmark 王国軍の占領から解放され、これによって Christian IV. の大陸に於ける再興の野望は完全に打ち砕かれ、これ以後彼は自領の Kopenhagen に引き揚げる事になる。
この先は次回
»Kurfürst Teil 48«
[Archiv / Memorandum 2019 Nr. 2]
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上部の写真:
Stralsund の包囲戦の様子を描いた
同時代制作の彩色された銅版画