Memorandum 2019 Nr. 5
Über Österreich und Wien
Kurfürst
Teil 51
選帝侯 (第51回)
»Kurfürst Teil 50«
[Archiv / Memorandum 2019 Nr. 4]
より続く
Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。
1555 年 9 月 25 日に Augsburg の帝国議会に於いて、皇帝 Karl V. (1500-1558) の代理として会議に出席した彼の弟で、1531 年以来 Roma ドイツ王であった Ferdinand I. (1503-1564) と、帝国諸侯及び自由帝国諸都市の間で締結された帝国宗教和議では、それに先立って同じく Ferdinand I. とプロテスタントの帝国諸侯との間に Passau 条約が結ばれた、1552 年時点に於けるカトリック教会領の状態を確実なものとする為に、実質的にはそれ以降のカトリックの教会領からプロテスタント領への移行を禁じるものとしての „Reservatum ecclesiasticum” (宗教的留保) が定められていたが、実際には多くの教会領がその後世俗領化されるという事が起こっていた。
この世俗化に対しては、帝国宮廷裁判所や帝国宮廷顧問官会議に提訴するという対処の仕方もあったが、大抵の場合はその審議が長期に及びまた費用も嵩むので、その価値は無い場合が多かった。
北部ドイツに於いても Magdeburg と Bremen の大司教区、及び Halberstadt と Lübeck 等を始めとする司教区は、プロテスタントの司教達に管理される様になっており、また Meißen と Naumburg-Zeitz の司教区は、Sachsen 選帝侯によってその領地に併合されていた。
これに対して皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) は、1618 年に始まった Bohemia 臣民の叛乱が、1620 年 11 月 8 日の Bílá hora (白い山) の戦いによって終結すると、前記 Augsburg の帝国宗教和議に於いて定められていた、領主がその領民全体の宗教を決定する権利を有するという „Cuius regio, eius religio” の原理に従って、プロテスタント勢力に対する反宗教改革の措置を Habsburg 家の世襲領地に於いて強硬に実行した。それによって Bohemia 王国、Austria 大公国と Hungary 王国内のプロテスタントの信仰を保持する貴族と聖職者達は、追放処分を受けるか或いはカトリックへの改宗を迫られた。
この時の追放者が向かった先は、帝国都市の Nürnberg や Augsburg、選帝侯国の Sachsen や Brandenburg を始めとして、Preußen 公国、更には Nederlanden 連邦共和国、Denmark 王国や Sweden 王国等に迄至る、Europa 中のかなりの広範囲な地域に亘っている。
その後 Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) の率いる Denmark 王国軍、及びそれと同盟関係にあった帝国内のプロテスタント諸勢力に対する、Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) の率いる皇帝軍と、Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) の率いるカトリック連盟軍の長年に及ぶ戦いは、1628 年 9 月に Pommern 公国の Wolgast が Wallenstein によって解放された事によって、Christian IV. の最終的な敗北で終わり、彼の大陸に於ける野望は完全に打ち砕かれるという結果になった。
それを受けて翌 1629 年 1 月より、中立を保持していた Hanse 都市の Lübeck に於いて、帝国及びカトリック連盟と Denmark 王国との間の和平交渉が開始された。
この和平交渉は直接の当事者以外の、国外をも含む諸勢力の利害と政治的思惑が絡んで容易に捗る事は無かったが、最終的には同年 5 月 22 日に合意に達して両者間に和約が締結されている。
その間同年 3 月 6 日に皇帝 Ferdinand II. は、この時の Denmark 王国軍及びそれと同盟関係にあったプロテスタント勢力に対する、皇帝軍とカトリック連盟軍の圧倒的に有利な状況を基盤として、プロテスタント側の帝国諸侯の同意を得る事無しに、帝国内の教会領地を 1552 年の状態に戻すという内容の復旧勅令を発布する。
この先は次回
»Kurfürst Teil 52«
[Archiv / Memorandum 2019 Nr. 6]
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上部の写真:
和平の絵
Augsburg の帝国宗教和議締結 100 年を記念して
Melchior Küsel (1626–1683)
によって制作された銅版画
1655 年