Memorandum 2019 Nr. 7

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 53

 

 


選帝侯 (第53回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 52«
[Archiv / Memorandum 2019 Nr. 6]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) がドイツ全域を軍事的に制圧し、正にその皇帝権力の頂点に達した時に、彼による反宗教改革運動の成果を帝国内の全領域に広げる絶好の機会だと捉えて、復旧勅令を発布する決断をしている。
その発布に先立って先ず Ferdinand II. は、Wien に於いて復旧勅令の副本 500 部を秘密裏に作成させ、それを各帝国管区長と有力諸侯に実行の命令書と共に送った上で、1629 年 3 月 6 日にこれを公布し、Ferdinand II. 自身はそれ以後復旧勅令の実際の施行に腐心集中した。

 帝国内教会領の支配状況を、1552 年8 月 2 日に Passau 条約が締結された時点の状態に戻すという復旧勅令の定めるところによって、実際にそれに該当するのは Bremen と Magdeburg の 2 つの大司教区と、それ以外の 12 の司教区、及び 500 を超える修道院等大変広範囲に亘り、それ等の多くが位置するのは Württemberg 公国と Franken、Niedersachsen 及び Schwaben 帝国管区であった。
特に Württemberg 公国では 50 の修道院がその対象に該当し、Württemberg 公爵 Eberhard III. (1614-1674) は復旧勅令によって、凡そ半分の領地を失う結果となった。

 世俗化が行われていた復旧勅令の対象に該当する領地は、皇帝に任命された辨務官が皇帝軍の兵士達の助けを借りて査察を行い、その後にカトリックの管財人に譲り渡された。
Württemberg 公国及び Franken 帝国管区内に於けるこの様な復旧勅令に基づく処置は、Fürstenberg-Heiligenberg 伯爵 Egon VIII. (1588-1635) によって実行に移された。
これ等の復旧勅令の敢行によって必然的に帝国内に於ける財産の所有関係には、看過されざるべき大きな変化がもたらされる結果となった。

 この復旧勅令は単にプロテスタント諸侯と彼等の信仰を脅かす事になったというだけでは無く、帝国諸侯の権利をないがしろにしたという点で、政治的な意味に於いても大きな間違いであったと言う事が出来る。
この勅令は 1521 年 5 月 8 日に、Martin Luther (1483-1546) を帝国平和喪失刑に処し、その教えの講義と布教を禁じた Worms の勅令以来初めて、選帝諸侯の同意を得る事無く帝国法として発布されたもので、その実際の内容如何に関わらず、この点が彼等にとってはより憂慮せざるを得ない問題であった。

 また Ferdinand II. は、皇帝に直属する領地ではあったが宗教改革以来、大部分の市民がプロテスタントに改宗していた Magdeburg 大司教区と、カトリックとプロテスタントが平和裏に共存する状態になっていた Halberstadt 領主司教区の 2 つの領地を、自身の第 7 子で末息子の Austria 大公 Leopold Wilhelm (1614-1662) に譲渡するという事もあり、選帝侯を始めとする帝国諸侯には、復旧勅令が帝国の権力構造に於ける皇帝の勢力を顕著に高め、ひいてはそれが帝国の絶対王政化への第一歩になるのではないかと思われた。
選帝侯の Bayern 公爵 Maximilian I. (1573-1651) と、その弟の Köln 選帝侯 Ferdinand von Bayern (1577–1650) は、確信を以て復旧勅令を支持する立場にあったにも拘らず、こういう点の危険性に関しては、彼等を始めとしてその他のカトリック側の帝国諸侯からも批判的に捉えられた。

 一方 Ferdinand II. は、Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Vincenzo I. Gonzaga (1562-1612) の第 6 子で末娘の、Eleonora Gonzaga (1598-1655) を皇帝妃として迎えていた。Mantova 及び Monferrato の両公国は 1612 年の Vincenzo I. Gonzaga の没後、その長男で Eleonora の兄に当たる Francesco IV. Gonzaga (1586-1612) が継ぐが、彼もまたその年の内に亡くなる。次には 1626 年に亡くなる迄次男の Ferdinando Gonzaga (1587–1626) が、更にその後は 4 男の Vincenzo II. Gonzaga (1594-1627) が夫々公爵位を継ぐが、彼もその翌 1627 年には亡くなって、Gonzaga の本家はそれを次ぐ後継者が死に絶えて断絶してしまう。
これを契機としてその翌年に Mantova 継承戦争が勃発するが、Ferdinand II. は最後 3 人の公爵の妹を妃としている事から、Mantova 公国の継承権を主張して、宮廷軍事顧問官会議長で元帥、また皇帝首席辨務官の Collalto 伯爵 Rambold XIII. (1579-1630) を指揮官とする皇帝軍を以て、翌 1629 年の秋にこの戦いに参戦する。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 54«
[Archiv / Memorandum 2019 Nr. 8]
へ続く

 

 


上部の写真:


Ferdinand II. と Eleonora Gonzaga の
結婚の際に行われた
花火による祝賀


Mantova

1622年

 

 

 

 

 

 

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