Memorandum 2019 Nr. 8
Über Österreich und Wien
Kurfürst
Teil 54
選帝侯 (第54回)
»Kurfürst Teil 53«
[Archiv / Memorandum 2019 Nr. 7]
より続く
Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。
Milano 公国の夫々東隣と西隣の、交通と交易上の要衝に位置していた Mantova と、1573 年に辺境伯領から昇格された Monferrato の両公国を治めていた、公爵 Vincenzo I. Gonzaga (1562-1612) が 1612 年 2 月 18 日に亡くなると、その長男の Francesco IV. Gonzaga (1586-1612) が両公爵位を継ぐが、その統治期間は 10 箇月にしか及ばず、同年 12 月 22 日に、天然痘に感染して僅か 26 歳の若さで亡くなってしまう。
Francesco IV. Gonzaga は 1608 年に、Savoie 公女 Margarete (1589-1655) と結婚していたが、唯一の息子の Luigi Gonzaga (1611-1612) はこの年の 8 月 3 日に 1 歳で亡くなっていて、この時点では第 1 子長女で未だ 3 歳の Maria Gonzaga (1609-1660) しか生存していなかった。
Monferrato 公国とは違い、Mantova 公国では男系の子孫にしか相続権が認められていなかった事もあり、早速両公国の後継者問題が起こる事となった。
Francesco IV. Gonzaga には、Maria Gonzaga にとっては伯父に当たる、Ferdinando Gonzaga (1587–1626) と Vincenzo II. Gonzaga (1594-1627) の 2 人の弟がいたので、先ずはこの 2 人が両公国の後継者権を受け継ぐ資格があったが、一方 Francesco IV. Gonzaga の配偶者、Savoie 公女 Margarete の父親の Savoie 公爵 Carlo Emanuele I. (1562-1630) は、Francesco IV. Gonzaga の相続人である Maria Gonzaga が自身の孫に当たる事から、Savoie 公国の東側に隣接し、経済的に大変魅力的な Monferrato 公国を手に入れる事の出来る絶好の機会ではないかと考えた。
そこで Carlo Emanuele I. は、Francesco IV. Gonzaga の未亡人となった自身の娘の Margarete が妊娠している可能性が有るという事を仄めかせて、先ずは Ferdinando Gonzaga が Mantova 及び Monferrato の両公国の後継支配者となる事を阻止し、また Monferrato 公国の後継権と、場合によっては Mantova 公国の領有権も含めて、それ等を手に入れる為の重要な担保とする為に、Carlo Emanuele I. が Gonzaga 家の唯一の相続人と見做していた Maria Gonzaga を、領内の Piemont に連れ出して拘禁するという役目を、彼の最年長の息子の Vittorio Amedeo I. (1587-1637) に託して、1612 年に彼を Mantova に向けて送り出した。
一方丁度 20 歳になった 1607 年に、枢機卿の位に就いて聖職界に於いて暮らしていた、Vincenzo I. Gonzaga の次男で、Francesco IV. Gonzaga の弟の Ferdinando Gonzaga は、兄の死亡の知らせが自分の許に伝わると、Mantova、Monferrato 両公国と Gonzaga 家一族を守る為に、急遽 Roma から Mantova へ戻り、1613 年 1 月 3 日には全領地を自身の采配下に置いた。
そして Ferdinando Gonzaga は、当時未だ僅か 3 歳であった Maria Gonzaga を、Carlo Emanuele I. の企みから守る為に、Sant’Orsola 修道院の庇護下に移し、嘗ての Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Guglielmo Gonzaga (1538-1587) と、Eleonore von Österreich (1534–1594) との間の長女で、1597 年に配偶者の Ferrara, Modena 及び Reggio 公爵 Alfonso II. d’Este (1533-1597) が亡くなって以来その未亡人となっていた、Maria からは従祖母に当たる Margherita Gonzaga (1564-1618) にその世話を委ねた。
因みに Margherita Gonzaga の母親の Eleonore von Österreich は、神聖 Roma 帝国皇帝 Ferdinand I. (1503-1564) の第 8 子第 6 女。
この先は次回
»Kurfürst Teil 55«
[Archiv / Memorandum 2020 Nr. 1]
へ続く
上部の写真:
Mantova 公爵及び Monferrato 公爵
としての
Gonzaga 家の紋章