Musik 2013 Nr. 2

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Klavierkonzerte

 


Teil 3

 

 

 

 

 

 

 


»Klavierkonzerte Teil 2«
[Archiv / Musik 2013 Nr. 1]
より続く

 


Beethoven による
5 曲の Klavierkonzerete の
作曲の経緯
について

 

 Ludwig van Beethoven (1770-1827) が 16 歳の時に作曲の勉強の為に、初めて一人で生まれ故郷の Bonn を離れて向かった Wien での滞在は、予定外の出来事によって意外に早く中断される事になる。
Bonn にいる母親の危篤の知らせが、Wien に到着して間も無い Beethoven の許に伝えられたためで、Beethoven は今回の Wien 滞在を凡そ 2 週間で切り上げ、Regensburg、München と Augsburg を経由して再び Bonn に向かう 700 km 余りの帰郷の旅に出る。

 その帰途に立ち寄った Augsburg に於いて、Hammerflügel の製作者として広く知られていた Johann Andreas Stein (1728-1792) と知り合えるという収穫はあった。
Bonn に到着した Beethoven は、母親の Maria Magdalena van Beethoven (1746-1787) に会う事は叶ったが、その後母親の病状は恢復せず、その年の 7 月 17 日に結核で亡くなる。
その前年の 5 月 (洗礼日は 5 日) に生まれた Ludwig の一番下の妹に当たる Maria Margaretha Josepha は、その母親の死後長く生き長らえる事が出来ず、母親の没後暫くして同じ年の 11 月 26 日に亡くなっている。

 16 歳で母親を亡くした Ludwig の悲しみは大きく、特にその年の夏から秋に掛けては悲しみに打ち沈んでいたが、それと同時に自身の健康状態にも発熱や息切れ等の好ましく無い状態が現れ、自分も母親を通して結核に感染したのではないかという危惧がこの時より始まる。
また母親の治療に要した医療費が家計にとっては大きな負担となっていたが、尚悪い事がそこに重なる。

 Bonn の宮廷に Tenor 歌手として勤めていた Ludwig の父親、Johann van Beethoven (1740-1792) の声が年々衰えて来ていたが、この頃はかなり貧弱な状態で、一方それに対して Wein の飲酒量は増すばかりで、この頃には既に Alkohol 中毒状態となっており、一家の生活を支えるのがかなり困難になって来ていた。
そこで未だ 16 歳ではあったが、1784 年以来 Bonn の第 2 宮廷 Orgel 奏者として収入もあった Ludwig が、家長の役目を担わざるを得ないという状況に陥ってしまう。
この頃からの特に 2 年間は Ludwig にとってかなり負担の大きな時期であったが、家族の食べ物を用意し、また合計 7 人の兄弟の内在命であった 2 人の弟達、Kaspar Anton Karl (1774-1815) には自身が Klavier の教師として、Nikolaus Johann (1776-1848) には薬剤師の為の教育がおろそかにならないように努力した。

 Beethoven にとっては恐らく人生の中で生活上の負担の最も大きかったこの頃の凡そ 2 年の間は、Beethoven の創作活動の空白期として知られている。
作曲活動に時間を割き、その為の精神的活力を保持する事がかなり困難であったであろう事は容易に想像出来るが、一方全く作曲から離れていたかどうかについても明確に分かっている訳ではない。
少なくともこの 2 年間に完成された作品が伝えられていないというのは事実だが、全く創作活動を停止してしまったというのも想像し難く、完成に迄は至らなかったスケッチ類が、年月の経過と共に失われてしまったと考えるのがより可能性が有る様に思われる。

 現在に残されている Beethoven の初期のスケッチ類の中で、その過渡的な筆跡からこの 2 年間に書かれたのではないかと推測出来るものがある。
その中の一つが、後に完成される Konzert für Klavier und Orchester in B-dur (Nr. 2, op. 19) の主題要素と類似している所があり、この時の草稿はこの B-dur の Konzert の最初期の姿ではないかと考える事が出来る。
従って後に完成される合計 5 曲の Klavierkonzerte の内、この B-dur のものが最も早くこの時期、1787 年か 1788 年に着手されたという事になる。

 その展開部に当たると思われる部分も残されているが、調性の進行の点では展開部と捉えるには問題点の残るところもある。
2 箇所の Kadenz に相当する部分もあるが、Kadenz 自身は全て記譜されている訳では無く、また Orchester の声部も抜けている。
Klavier の声部が全て書かれていないというのは、後の完成された Konzert の場合もそうだが、初演の演奏会では Beethoven 自身が Klavier の声部を即興で演奏したので、その折の楽譜には Beethoven が分かる覚書程度にしか記譜されておらず、その後の出版の段階になって初めて全て書き記すという風にしていた事による。

 1788 年に Beethoven は、領主で Köln 選帝侯の Maximilian Franz von Österreich (1756-1801) に昇給の嘆願書を提出したものの、それが却下されるという事はあったが、一方この年より Beethoven は Bonn の宮廷管弦楽団及び宮廷劇場の Viola 奏者の地位を得る事が出来た。
これが家計の点で生活の助けになったのは勿論だが、これによって Beethoven の Orchester という演奏媒体と、その Repertoire に関する知識が大きく広がり、後の作曲の為の基礎とその大きな助けになったという点を看過する事は出来ない。

 

 


この先は次回
»Klavierkonzerte Teil 4«
[Archiv / Musik 2013 Nr. 3]
へ続く

 

 


上部の写真:


1754 年に
Bonn の宮廷劇場に於いて行われた
仮面舞踏会

Köln の宮廷画家
François Rousseau (ca. 1717-1804) による
油彩画


この頃は Ludwig van Beethoven と同名の祖父が
この劇場に宮廷音楽家 (Baß 歌手)
として勤めていた

 

 

 

 

 

 

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