Musik 2013 Nr. 3

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Klavierkonzerte

 


Teil 4

 

 

 

 

 

 

 


»Klavierkonzerte Teil 3«
[Archiv / Musik 2013 Nr. 2]
より続く

 


Beethoven による
5 曲の Klavierkonzerete の
作曲の経緯
について

 

 1789 年になると Ludwig の父親 Johann van Beethoven (1740-1792) の状態はかなり悪化し、Ludwig は自分自身が直接弟達の面倒を全て見る事が出来る様にその年の 11 月に止む無く、宮廷から受け取る父親の報酬の半額を自分に支払ってくれる様に、Köln 選帝侯の Maximilian Franz von Österreich (1756-1801) に嘆願書を提出する。
これに先立つ 1788 年に同じく Ludwig が選帝侯に提出した昇給の嘆願は却下されたが、今回は同年 11 月 20 日付で以下の様な内容の決定が下された。

 


・ Johann van Beethoven は宮廷 Tenor 歌手の職を解任する
・ Johann van Beethoven は Bonn の町を出て選帝侯領内の地方の田舎町に住む事
・ これ以後 Johann van Beethoven に年金として支払われる事になる今迄の年額報酬の半分に当たる
  100 帝国 Thaler は、その息子の Ludwig van Beethoven に支払われる
・ Ludwig には更に、その家族を養う為に年間 3 Malter の麦が支給される

 

 Johann van Beethoven は中毒状態の飲酒癖が原因で、Bonn の町で警官と騒ぎを起こす様な事もあったらしく、そのために Bonn を去って田舎町に移るように指示された様だが、Johann はその 3 年後の 1792 年に亡くなる迄変わらず Bonn に住み続けているので、上記の決定にも拘らず Bonn の町からは出て行かなくても良くなった様に伺われる。
それ以外の決定に関しては実際に実行に移されて、Ludwig の生活の負担を軽減する事に大いに寄与している。

 1787 年から凡そ 2 年間の、Beethoven にとって最も生活の負担の大きかった時期に、Beethoven による完成された作品が無く作曲活動の停滞が見られるが、上記の選帝侯の決定が下された年の冬頃から、再び Beethoven の創作及びその他の文化的な活動の記録が見られる様になる。
先ずその年の冬に Bonn 大学の聴講生として学籍登録をし、また Bonn の知識階級の集まる読書協会にも加入した。この Bonn の読書協会にはその後 Beethoven の親密な友人で、且つ後援者の一人となる Ferdinand Ernst von Waldstein-Wartenberg 伯爵 (1762-1823) もその会員として加わっていた。

 この時の Bonn の領主であった Köln 選帝侯の Maximilian Franz von Österreich の兄で、神聖 Roma 帝国皇帝の Joseph II. (1741-1790) が 1790 年 2 月 20 日に亡くなると、翌月の 3 月 19 日にこの読書協会が Bonn で主催する事になった追悼の式典の為に、Beethoven にその追悼 Kantate の作曲を依嘱した。
実際にはその式典に Beethoven による Kantate の作曲は間に合わず、この作品はその後も Beethoven の生前中に公開の場で発表される機会を持つ事は無かった。
また同年 10 月には Joseph II. の弟でその皇帝位を継いだ Leopold II. (1747-1792) の戴冠を祝う Kantate も Beethoven は作曲した。
これ等 2 曲の Kantaten は、Beethoven の Bonn 時代の作品の中では最も興味深いものと言う事が出来る。

 選帝侯 Maximilian Franz von Österreich は、Bonn に宮廷を構え乍ら同時にドイツ騎士団長も務めていたが、1791 年の秋に当時ドイツ騎士団の本拠地であった Mergentheim am Main に於いて、その指揮官と騎士達の集まりが開催される事となった。
その集まりはその年の 9 月 18 日から 10 月 20 日迄の期間に及び、騎士団長 Maxmilian Franz の Mergentheim 滞在はそれを挟む凡そ 3 箇月間にも亘った。
その 2 年前に行われた前回の同じ集まりの折にも、Maxmilian Franz の Mergentheim 滞在は、その間の娯楽が何も無いまま長期に亘ったが、今回はその騎士団長の長期滞在の為に、演劇と音楽の楽しみを準備する事となった。

 音楽に関しては Bonn の宮廷より歌手の他に凡そ 25 人の宮廷 Orchester の団員が同行する事となり、その中に Beethoven も含まれる事となった。それ迄宮廷楽長であった Joseph Reicha (1752-1795, 作曲家として知られる Anton Reicha の伯父) が通風を患っていたために、その年からその後任で選帝侯の音楽監督となった Franz Anton Ries (1755-1846) が、その Orchester の指揮者を務めた。
Franz Anton Ries はそれ迄 Bonnの宮廷 Orchester の第 1 Violine 奏者を務めていたが、Beethoven はこれに先立つ 1785 年から翌年に掛けて、彼に Violine 奏法の教えを受けていた。

 Bonn の宮廷の Orchester 奏者と、その他に歌手や役者達は 2 隻の船に分乗して、夏の暑さも過ぎ去り丁度気候の快適になった時期に Koblenz、Bingen、Mainz、Frankfurt am Main、Aschaffenburg 等の町を経由して、Rhein 河と Main 河を船で遡る旅に出発した。
仲間の音楽家達と過ごしたこのゆったりとした船旅は、20 歳の Beethoven にとって快適で楽しいものだったらしく、後になってもしばしば回想している。

 

 

 

 

 


1525 年より 1809 年迄
ドイツ騎士団の本拠地で
騎士団長の居城となっていた
Mergentheim 城

 

 

 

 


この先は次回
»Klavierkonzerte Teil 5«
[Archiv / Musik 2013 Nr. 4]
へ続く

 

 


最上部の写真:


Rhein 河の船旅

Koblenz の手前
Neuwied

 

 

 

 

 

 

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