Musik 2013 Nr. 4

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Klavierkonzerte

 


Teil 5

 

 

 

 

 

 

 


»Klavierkonzerte Teil 4«
[Archiv / Musik 2013 Nr. 3]
より続く

 


Beethoven による
5 曲の Klavierkonzerete の
作曲の経緯
について

 

 1791 年の晩夏に Ludwig van Beethoven (1770-1827) を含む Bonn の宮廷音楽家達は、領主の選帝侯 Maximilian Franz von Österreich (1756-1801) に従って、ドイツ騎士団の本拠地であった Mergentheim am Main に向かうゆったりとした船旅に出発した。
一行は当時未だ小国家の首都であった Koblenz や Mainz を経由して、Aschaffenburg am Main で初めて上陸し、そこに滞在した。
Aschaffenburg am Main には Mainz 選帝侯の夏の離宮が置かれていたが、そこには Franz Xaver Sterkel (1750-1817) が住んでいた。

 Franz Xaver Sterkel は子供の頃より Klavier と Orgel の演奏を学んでいたが、学校教育が終わった後の 1768 年から神学の勉強を始め、1778 年に Neumünster の Kollegiatstift の教区司祭となり、同時にそこの Orgel 奏者も務めた。
その後次第に Sterkel の音楽作品が知られる様になり、そのため Mainz 選帝侯で同時に大司教の Friedrich Karl Joseph von Erthal 男爵 (1719-1802) によって、宮廷音楽家としての役職が与えられ、更に 1785年には Mainz の司教座聖堂参事会員として迎えられる。
その職の傍ら歌手や演奏家を教育育成し、教会音楽や鍵盤音楽の作曲等の音楽活動にも精力を注いだ。

 Beethoven 達の Bonn の宮廷音楽家の一行が Aschaffenburg に滞在した折に、その年から新しく Bonn の宮廷楽団の指揮を務める事になった Franz Anton Ries (1755-1846) と、同楽団の Horn 奏者で後に音楽出版社を設立して広く知られるようになる Nikolaus Simrock (1751-1832) が、同楽団の Violine 奏者 Andreas Romberg (1767–1821)、その従弟で Violoncello 奏者の Bernhard Romberg (1767-1841) と Beethoven という、当時の Bonn の宮廷楽団を代表する若い奏者達を連れて Sterkel を表敬訪問する事となった。

 Sterkel はその 2 年後の 1793 年に、前任者の Vincenzo Righini (1756-1812) が Berlin に招聘されて移動した際に、その後継者として Mainz の宮廷楽長に就任したが、既にこの Beethoven の一行が訪ねた時には、現在の全ドイツ中で並ぶ者の無い程の Klavier 演奏の名手として知られていた。
1779 年から 1782 年に掛けての Italia 滞在を経て、Sterkel は作曲家及び Klavier 奏者として大変洗練され、その演奏は最高度に軽く優雅で如才の無いものであったと伝えられている。

 Sterkel を Mainz 選帝侯の夏の離宮に訪ねた Bonn の宮廷音楽家達はとても好意的に迎えられ、儀礼上の挨拶等を交わした後、Bonn から訪れた音楽家達の求めに応じて、Sterkel は自作の Sonate で Klavier の演奏を披露する事となった。
その後 Sterkel が今度は Beethoven が Klavier を演奏する様にと求め、特に Beethoven 自身による Variationen über das Thema von Righinis „Vieni amore” in D-dur (WoO 65) の演奏を希望した。

 この曲は前記の Mainz の宮廷楽長 Vincenzo Righini がその 1~2 年前に作曲した、Klavier の伴奏による声楽の為の 12 の Ariette の中の 1 つ、„Vieni amore” の旋律をその Thema に選び、それに基づく Klavier の為の 24 の変奏曲として Beethoven が 1790 年に作曲し、Maria Anna Hortensia von Hatzfeld 伯爵夫人 (1760-1813) に献呈されたものであった。
この作品はこの間近に出版されたばかりの新作であったが、Sterkel は既にそれを入手していた様子で、その作品中の何曲かは演奏の難易度が高いという事も承知しており、Sterkel は自分の所持する楽譜をその時に探したが、生憎すぐにはそれを見付ける事が出来なかった。

 そこで Bonn の音楽家達は Beethoven が暗譜でもその曲を演奏する気になる様に持っていこうと努力した様だが、彼等全員にはその曲を Beethoven が作曲はしたものの、全曲を自身で演奏する事は出来ないのではないかと Sterkel が考えているという事が分かっていた。
それを察知した Beethoven は自ら早速 Klavier の席に着いて演奏を始めたが、それが全曲に及んだという事に限らず、その場に居合わせた Bonn の音楽家達自身が驚いた事には、その演奏が彼等が今迄に聴いた事の無い様な、直前に初めて経験した Sterkel 風の豊かな装飾と輝かしい軽さに富んだもので、難しい変奏曲が正に Sterkel の Sonate の様に響いたという。
その他にも更に優しくは無い幾つかの曲や変奏曲の即興演奏によって同席した人々を感心させ、Sterkel も Beethoven への賞賛を惜しまず、彼等一行の Mergentheim から Bonn への帰途に、是非もう一度 Mainz に立ち寄って貰いたいと何度も願いを伝えた。

 Beethoven の特に親しい友人の一人であった Franz Gerhard Wegeler (1765-1848) によると、この頃迄 Beethoven は素晴らしいと言う事の出来る様な Klavier 奏者の演奏を聴く機会が無く、また Klavier という楽器を演奏する際の繊細な Nuance の表現というものを未だ知らず、その演奏は硬くて粗いものであったらしい。
その Beethoven が初めて聴く当時のドイツ中で一番と言われていた、Sterkel の熟練した優雅で繊細な Klavier の演奏を注意深く聴いた事は、上記の現在に迄伝えられている記録から明らかだが、この時の Sterkel の演奏がこれ以後の Beethoven の初期の Klavier の為の作品と、自身の Klavier の演奏に少なからぬ影響を与えたと考えられている。

 

 


この先は次回
»Klavierkonzerte Teil 6«
[Archiv / Musik 2013 Nr. 5]
へ続く

 

 


Franz Gerhard Wegeler
に関しては
[Archiv / Kommentar 2012 Nr. 3]
以降を参照

 

 


上部の写真:


Mainz 選帝侯の第 2 の居城
Aschaffenburg の
Johannisburg 宮

1605 年から 1614 年に掛けて
Georg Ridinger (1568-1617) によって
Renaissance 様式の宮殿として造営された
その後 1945 年に第 2 次大戦によって破壊され
1964 年に再建が完成

 

 

 

 

 

 

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