Musik 2013 Nr. 5

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Klavierkonzerte

 


Teil 6

 

 

 

 

 

 

 


»Klavierkonzerte Teil 5«
[Archiv / Musik 2013 Nr. 4]
より続く

 


Beethoven による
5 曲の Klavierkonzerete の
作曲の経緯
について

 

 1790 年に永らく仕えていた Esterházy de Galantha 侯爵 Nikolaus I. Joseph (1714-1790) が亡くなって、年金手当付きで解雇された Joseph Haydn (1732-1809) は、翌年に 1 回目の London への演奏旅行に出掛けたが、更にその翌年の 1792 年 7 月に London から Wien への帰途 Bonn に立ち寄るという事があった。

 その折に Bonn の Bad Godesberg に、選帝侯 Maximilian Franz von Österreich (1756-1801) によって新しく建設されたばかりの宮廷用舞踏会場 Redoute に於いて、Haydn の歓迎の催しが行われ、そこで Ludwig van Beethoven (1770-1827) は Haydn の前で Klavier の演奏を行った。
また Beethoven にとっては前回の 1787 年に次いで 2 回目となる、Wien への作曲の勉強の為の旅行の計画が話し合われて、Beethoven が Wien に出向いた折には、Haydn に師事する事が出来るという取り決めが行われたと推定されている。
この計画は早速その年の内に実行に移されて、Beethoven は 11 月初頭に Wien に向けて Bonn を出発した。

 Beethoven が 1787 年に初めて Wien に行った折には、彼が Wien に到着して 2 週間も経たない内に母親の危篤の知らせが届き、すぐに Bonn への帰途に就いた。今回も恐らく Beethoven が Bonn を出発する頃には、既に父親の Johann van Beethoven (1740-1792) が病床に着いていたのではないかと推測されているが、Beethoven が Wien に到着した翌月の 18 日に、Johann が死亡したという知らせが間も無く Ludwig の許にも届いた。
しかし今回は再度 Wien での勉強の計画を中断して Bonn に戻る事はせず、自身の音楽家としての完成へ向けて邁進している。

 Beethoven は今回改めて Wien に出た当初、多くの時間をその第 1 の目的であった Haydn の下での対位法の勉強に費やしたが、Wien で最初に住んだ住居から間も無く移り住んだ Alserstraße (現在 Wien 市 第 9 区) の同じ建物内には、その後間も無く Beethoven の重要な後援者の一人となる、Karl Alois Lichnowsky 侯爵 (1761-1814) が Wien 滞在用の住居を構えており、また皇帝妃 Maria Theresia (1717-1780) の侍医を務めた Gerard van Swieten 男爵 (1700-1772) の息子で、特に Barock 時代の作曲家、Johann Sebastian Bach (1685-1750) と Georg Friedrich Händel (1685-1759) の愛好家であった、Gottfried van Swieten 男爵 (1733-1803) とも知己を得る事が出来た。

 間も無く Beethoven の重要な後援者となるこの貴族は両者共に、Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) の友人でもあったが、これ等の貴族と知り合う事によって、Beethoven は彼等の Salon に出入りする機会を得る事が出来、そこで披露した演奏を通じて Wien の社交界に於いて先ずは、Klavier 演奏の名手としての Beethoven の名が知られる様になる。

 当時の Wien で第 1 級の Klavier の名手として広く認められていた、Bohemia 出身の作曲家 Joseph Gelinek (1758-1825) は、数多くの変奏曲の作品と、それを作曲家 Carl Maria von Weber (1786-1826) が詩にして賞賛した事でも知られているが、彼が Wien に移り住んで間もない頃に Beethoven と知り合った以下の様な逸話が残されている。

 後に Beethoven の生徒の一人となった Austria の作曲家 Carl Czerny (1791-1857) が伝えるところによると、彼の父親がこの頃の Wien の町で随分おしゃれをして急ぐ Joseph Gelinek に出会ったので、どこに向かって急いでいるのかと聞くと、最近 Wien にやって来た若い Klavier 弾きをこれから片付けに行くところだと答えた。
数日後に再びこの 2 人が町で出会ったので、Czerny の父親が先日の顛末を Gelinek に質問すると、あの若い Klavier 弾きは人間では無くてまるで悪魔の様で、Gelinek 自身も他の人をも Klavier の演奏で以て死に迄追い詰めるだろうと答えた。それと同時に Beethoven の即興演奏の才能には随分驚いた様子だったという。

 1787 年に Beethoven の母親が Bonn で亡くなった後に、彼の第 2 の母親と言われた Helene von Breuning (1750-1838) の娘で、 Beethoven が Klavier を教えていた Eleonore von Breuning (1772-1841) に、Beethoven が Wien に移り住んで凡そ 1 年後に作品を献呈した際に添えた、1793 年 11 月 2 日付けの手紙を見ると、Beethoven が Wien に出た頃の彼を取り巻く音楽界の状況の一端が窺われる。

 その作品とは Klavier と Violine ad lib. の為の 12 の Variationen in F-dur über „Se vuol ballare” aus Mozarts Oper „Le nozze di Figaro” (WoO 40) だが、その手紙の追伸にその演奏法等に関して以下の様に Beethoven は書いている。

 

 「Variationen は特に Coda の Triller が少し難しいかも知れませんが、それにたじろいではいけません。Triller の音以外は演奏する必要がありません。他の音は Violine の声部と重複しているので省略して良い様に書かれています。
普通ならそういう書き方は決してしないのですが、もし私が夜に即興で演奏すると大抵翌日にはそれを細部まで書き留めて自慢する者がここ Wien の至る所にいるという事に何度も気が付いたからなのです。
また近々そういうものが現れるだろうという事が事前に分かったので、それに先手を打っておこうと言う訳です。
もう一つ他の理由があるのですが、それは当地の Klavier の先生達を困惑させようという事です。彼等の内の何人かは私の宿敵なのですが、あちらこちらで彼等にこの Variationen の演奏が持ち掛けられたとしたら、彼等はそれを演奏するのに相当困惑するだろう事が私には分かっているので、こういう方法で彼等に復仇しようという訳なのです。」

 

 


Carl Czerny の記録
及び
Beethoven による手紙の
原文は省略
日本語訳は執筆者による

 

 


この先は次回
»Klavierkonzerte Teil 7«
[Archiv / Musik 2013 Nr. 6]
へ続く

 

 


Gottfried Freiherr van Swieten
に関しては
[Archiv / Kommentar 2013 Nr. 5]
を参照

 

 


上部の写真:


Bonn の Redoute


Laurenz Janscha (1749-1812)
の水彩画に基づく
Johann Andreas Ziegler (1749-1802)
による
銅版画

水彩による着色
1792 年制作

 

 

 

 

 

 

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