Musik 2014 Nr. 3

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Klavierkonzerte

 


Teil 12

 

 

 

 

 

 

 


»Klavierkonzerte Teil 11«
[Archiv / Musik 2014 Nr. 2]
より続く

 


Beethoven による
5 曲の Klavierkonzerete の
作曲の経緯
について

 

 Ludwig van Beethoven (1770-1827) が Wien に於いて初めて自身の主催による演奏会を催した 1800 年頃より、彼は夏の休暇の季節を Wien の郊外に移って過ごすというのが恒例になり、その期間は Wien の街での社交や Klavier の教授等から離れて自由な時間を得る事が出来、作曲に多くの時間を費やす事が出来る様になった。
この 1800 年の夏には、現在では拡大した Wien の市域内に含まれているが、当時は Wien の郊外であった Unterdöbling に移り、そこで彼にとって 3 番目となる c-moll の Klavierkonzert の作曲を集中的に行った。

 この頃 Ludwig van Beethoven の秘書の役目を務めていた弟の Kaspar Anton Karl van Beethoven (1774-1815) は、Leipzig の楽譜出版社 Breitkopf & Härtel に宛てた 1802 年 3 月 28 日付けの手紙の中で、c-moll の Klavierkonzert の提供を申し出ている。
丁度その頃に Beethoven は 1800 年の時と同様に、再び Wien の宮廷劇場を借り受けて自身の利益の為の慈善演奏会を開催しようとしたが、既に他の音楽家への貸し出しが決まっていて、この年の春の演奏会の開催は実現しなかった。

 その前年の 1801 年には当時としては大規模で、帝国内に於いても最新の設備を備え、間も無く Wien 市民達にも広く認められて高い評価を受ける事になる劇場、Theater an der Wien が建設されて柿落しが行われていたが、1803 年初旬に Beethoven は、その劇場の所有者で劇場監督を務めていた Emanuel Schickeneder (1751-1812) によって、その劇場専属の作曲家の地位を与えられる。
Emanuel Schickeneder はそれ以前からも Wien に於いて劇場監督、台本作家、俳優として広く活動しており、Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) の友人であり、その Singspiel „Die Zauberflöte” (魔笛) の台本作者としても知られている。

 Beethoven はこの劇場の作曲家としての契約を結んだ事によって、年に 1 作の Oper をこの劇場の為に作曲するという義務を負ったが、同時にその劇場内には住居を与えられ、また Oper を始めとして当時楽しみの為の音楽の上演が禁止されていた聖週間 (受難週) の期間中には、その劇場とその Orchester を借り受ける事が出来るという特権を得た。
これによって前年には成功しなかった自身の演奏会開催が、今回は拒否される事無く開催出来る様になった。

 早速その利点を活用して Beethoven は演奏会を企画し、その年の 4 月 5 日に開かれる事となった。
同年 3 月 26 日と 30 日付の Wiener Zeitung (Wien 新聞) 紙上には、4 月 5 日に Beethoven による新作の Oratorium とその他の作品が演奏されるという広告が掲載されている。
因みに „Theater an der Wien” (An der Wien 劇場) と同じく、この „Wiener Zeitung” も現在の Wien に存続しており、現在に迄営業が続く新聞としては世界最古のものとなっている。

 この演奏会は現在の一般的な曲目構成の観点から見ると通常以上に長く大きな演奏会で、Beethoven による Symphonie in C-dur (Nr. 1)、Symphonie in D-dur (Nr. 2) と Konzert für Klavier und Orchester in c-moll (Nr. 3) に加えて、更に広告で予告されていた Oratorium „Christus am Ölberge” (Olive 山の救世主) が演奏された。この Oratorium だけで凡そ 1 時間の演奏時間を要する。

 今回の演奏会は 1800 年の時のそれとは違い、全ての曲目が Beethoven 自身の作品から成っている。
また Symphonie in C-dur 以外の全ての曲がこの演奏会が初演となる。
Beethoven 自身はこれ等以外にもまだ他の曲をこの演奏会で演奏しようとしていた様だが、当時に於いても尚時間の制約によってそれは実現しなかった。

 丁度この頃 Wien にやって来て Beethoven の Klavier の生徒となった Ferdinand Ries (1784-1838) の記録によると、この演奏会当日 Ries が起きた朝の 5 時には Beethoven は既に机に向かっていて、その日に上演される Oratorium の Trombone の声部の楽譜を書いていたという。
当日の練習は朝の 8 時から、Beethoven の重要な後援者の一人でまた今回初演される Symphonie in D-dur を献呈された、Karl Alois Lichnowsky 侯爵 (1761-1814) の邸宅に於いて行われた。
午後の 1 時半頃には既に長時間の練習で楽員達は疲れ果てていたが、Lichnowsky 侯爵がそれを見て用意した食事と Wine で再び元気を回復し、もう一度最初から Oratorium の練習が開始され、午後 6 時からの本番の為に楽員達が演奏会場への移動を開始する時刻になる迄続けられた。

 Beethoven の今回の演奏会に対する自負心はかなり強かった様で、Allgemeine Musiklaische Zeitung (一般音楽新聞) によるその演奏会の批評の記事によると、Beethoven は劇場の前列の客席で通常の 2 倍、予約で事前に確保された席には 3 倍、Box 席は通常の 4 Gulden に対して 12 Dukaten の価格を設定したと書かれている。
しかしこれに対してはこの年の 9 月に Beethoven が、Allgemeinen Musiklaischen Zeitung を出版していた Breitkopf & Härtel に宛てた手紙の中で、事実では無いと否定し抗議している。
何れにしても今回の演奏会は Beethoven に対して、1,800 Gulden というかなり大きな金額の収益をもたらし、大変成功した演奏会の一つとなった。

 

 


Allgemeine Musikalische Zeitung の記事
及び
Ferdinand Ries による記録
の原文は省略
日本語訳は執筆者による

 

 


この先は次回
»Klavierkonzerte Teil 13«
[Archiv / Musik 2014 Nr. 4]
へ続く

 

 


Ferdinand Ries
に関しては
[Archiv / Kommentar 2014 Nr. 3]
以降を参照

 

 


上部の写真:


Beethoven が上記の演奏会を開催した頃の
Theater an der Wien

 

 

 

 

 

 

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