Musik 2015 Nr. 2

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Klavierkonzerte

 


Teil 19

 

 

 

 

 

 

 


»Klavierkonzerte Teil 18«
[Archiv / Musik 2015 Nr. 1]
より続く

 


Beethoven による
5 曲の Klavierkonzerete の
作曲の経緯
について

 

 1808 年 12 月に Ludwig van Beethoven (1770-1827) の Konzert für Klavier und Orchester in G-dur (Nr. 4, op. 58) の公開初演が行われたが、その年の 11 月 1 日以前の 9 月か 10 月に Beethoven は、1807 年に第 4 次対仏大同盟戦争の結果 Tilsit の講和条約により誕生した Westphalen 王国の国王で、France 帝国皇帝 Napoléon Bonaparte (1769-1821) の弟 Jérôme Bonaparte (1784-1860) の、Kassel の宮廷に於ける楽長としての招聘を受けた事が分かっている。

 この時期の Beethoven の経済状態は、彼の重要な後援者の一人であった Karl Alois Lichnowsky 侯爵 (1761-1814) の、Schlesien にある Troppau 近郊の領地 Grätz を Beethoven が訪れた 1806 年の秋に、そこで両者の間に激しい諍いが起こり、それ以来侯爵から受けていた年額 600 Gulden の年金が入らなくなってしまった事から、余り好ましい状態では無かった。
しかしこの時期には充実した作曲活動と並んで、Beethoven 自身による演奏も多く行われていて生活に困っていた訳では無いが、Wien の宮廷劇場監督局に提出した任用の出願が拒否された事もあって、永続的で安定した収入を望んだ Beethoven は、この Kassel からの申し出を積極的に考えていた。

 Beethoven は翌 1809 年 1 月 7 日付で、Leipzig の楽譜出版社 Breitkopf & Härtel に宛てた手紙の中で以下の様に書いている。

 


 「 [・・・] 今や私は遂にあらゆる種類の謀略、詭計、卑劣さに無理強いされて、この唯一の祖国を去らねばならなくなりました。Westphalen 国王陛下の申し出によって、報酬が年額金貨で 600 Dukaten の宮廷楽長としてそちらに抜け出します。丁度今日、私は [Kassel に] 行きますという確約を郵便で発送しました。
後は Leipzig を経由する事になる旅行の、準備に取り掛かる為の命令を期待して待つばかりです。 [・・・] 」

 


 Beethoven がここで書いている 「あらゆる種類の謀略、詭計、卑劣さ」 とは、この手紙が書かれた時より 2 週間余り前の前年 12 月 22 日に Wien で開催され、Beethoven の Konzert für Klavier und Orchester in G-dur (Nr. 4, op. 58) の公開初演となり、またその他にも Symphonie in c-moll (Nr. 5, op. 67) と Symphonie in F-dur „Pastoral-Symphonie” (Nr. 6, op. 68) 及び Fantasie in c-moll für Klavier, Chor und Orchester („Chorfantasie”, op. 80) の初演も行われた、Beethoven の主催による演奏会の為の練習中に、劇場の Orchester 団員との間に起こった諍いを始めとする問題を指していると考えられる。
何れにしてもこの手紙から Beethoven は、彼を取り巻く Wien の音楽界の状況に非常に大きな不満を抱き、1809 年の年初には最早 Wien を後にして Westphalen 王国の首都 Kassel へ行く事を固く決心していた事が分かる。

 この時 Beethoven に提示された Kassel での宮廷楽長としての待遇は、彼自身の記述に拠れば上述の年俸に加えて、赴任の際の旅行費用として別に 150 Dukatenを受け、職務としては短くて回数の少ない国王の演奏会を指揮するのみで良いというもので、Beethoven は Oper の作曲もするつもりであった様だが、その上演の折の指揮の義務は無く、また彼自身にとっての芸術上の重要な目的であった、大作の作曲に本格的に取り組む事が出来、その為には宮廷の Orchester を自由に使う事も許されるという大変恵まれたものであった。

 後は契約書に署名をすれば良いだけの状態になっていたが、その年の年頭に Beethoven が決心していた様には、その後この話は順調に進んで行かなかった。
それは Wien の芸術を愛好する貴族達が Beethoven の固い決心にも拘らず、自分達の町に何としてでも彼を引き留めておこうとする動きを始めた為で、最初にきっかけを作ったのは Anna Marie von Erdődy 伯爵夫人 (1779-1837) であったが、Ignaz Gleichauf von Gleichenstein 男爵 (1778-1828) と共に、どういう条件を満たせば Beethoven は Westphalen 国王との契約締結を中止して、Wien に留まってくれるだろうかという交渉を始めた。

 

 


Beethoven
による手紙の原文は省略
日本語訳及び [ ] 内の補注は執筆者による

 

 


この先は次回
»Klavierkonzerte Teil 20«
[Archiv / Musik 2015 Nr. 3]
へ続く

 

 


上部の写真:


Jérôme Bonaparte を
国王に抱えた
Westphalen 王国の国旗

この王国は Tilsit の講和条約により
1807 年に誕生した

 

 

 

 

 

 

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