Musik 2015 Nr. 4

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Klavierkonzerte

 


Teil 21

 

 

 

 

 

 

 


»Klavierkonzerte Teil 20«
[Archiv / Musik 2015 Nr. 3]
より続く)

 


Beethoven による
5 曲の Klavierkonzerete の
作曲の経緯
について

 

 Ludwig van Beethoven (1770-1827) による 5 作目で最後の Klavierkonzert の為のスケッチは、所謂 Grasnick スケッチ帳の Fantasie für Klavier, Chor und Orchester in c-moll („Chorfantasie”) に続いて書き始められている事から、それを書き始めた時期としては、彼の Symphonie in c-moll (Nr. 5, op. 67) と Symphonie in F-dur „Pastoral-Symphonie” (Nr. 6, op. 68) 及び上記の „Chorfantasie” (op. 80) が初演され、また Konzert für Klavier und Orchester in G-dur (Nr. 4, op. 58) が私的な初演に続いて公開初演された、1808 年 12 月 22 日の Theater an der Wien に於ける Beethoven の主催による演奏会の後と推定する事が出来る。

 翌 1809 年に入ってすぐに Beethoven は、初演時には未だ書かれていなかった „Chorfantasie” の為の、Klavier の solo による導入部を作曲してそれに付け加えたが、その作曲と同時期に 5 作目の Klavierkonzert の作曲も始められたと考えられている。
その後の作曲は Meinert スケッチ帳に続いて書かれている事から、その作曲の多くは 1809 年の 2 月から 10 月に掛けて行われたという事になる。

 この 5 作目の Klavierkonzert の作曲の時期というのは、Beethoven の人生に関わる幾つかの出来事があった。
先ず彼のその後の人生を大きく左右した出来事としては、Napoléon 戦争の結果 Westphalen 王国の国王となった、France 帝国皇帝 Napoléon Bonaparte (1769-1821) の弟の、Jérôme Bonaparte (1784-1860) より与えられた、Kassel の宮廷に於ける楽長としての招聘を Beethoven に断らせて、その後も終生 Wien に留まって貰う為の契約が、Wien の 3 人の貴族達との間に結ばれたという事がある。

 Beethoven と 1807 年頃に Wien で知り合い、その後彼の特に親しい友人の一人となり、またこの 1809 年の契約の為の Beethoven との交渉役を引き受けて、この契約成立に関して重要な役目を担ったが、契約が最終的に結ばれた時点では Wien を離れていた Ignaz Gleichauf von Gleichenstein 男爵 (1778-1828) に、Beethoven はこの Wien の貴族達との契約が成立して間も無い、3 月 18 日に手紙を書いて知らせているが、その中で Beethoven はこの契約に引き続いて後には、何れ帝室宮廷楽長の肩書がやって来るかも知れないと書いていて、矢張り宮廷での地位とそこからの安定した収入への変わらぬ関心を示している。

 一方今回の Kassel の宮廷楽長職への招聘を断わり、Beethoven に Wien へ留まって貰う為の契約を成立させようという動きの発起人と考えられている、Anna Marie von Erdődy 伯爵夫人 (1779-1837) と Beethoven の間には、Beethoven の使用人を巡る Beethoven 自身の誤解から不仲が生じてしまう。
結局最終的には全て自分の誤解に非があると理解した Beethoven は、早速その翌日に伯爵夫人に宛てて謝罪の手紙を書いた。
恐らくその後伯爵夫人との間には和解が成立したであろうと推測されているが、1808 年以来その時迄、Wien の Krugerstraße に伯爵夫人が所有していた大きな建物の中に Beethoven も住まいを構えていたが、この手紙を書いた後の 3 月か 4 月に、Wien の市壁とその斜堤が見える Walfischgasse に引っ越しをした。

 またこの年に入ると Beethoven の故郷 Bonn のある Rhein 地方を経由して、Napoléon の軍隊が次第に Wien を目指して迫って来た。Wien が France 軍に包囲される危険がいよいよ目前に差し迫ると、Wien 在住の殆どの貴族達は町を去って疎開した。
この年の初めに Beethoven を Wien に留める為の契約を取り交わした 3 人の貴族の内、Ferdinand von Kinsky 侯爵 (1781-1812) は 2 月 26 日に、もう一人の Franz Joseph Maximilian von Lobkowitz 侯爵 (1772-1816) は 3 月 14 日にそれぞれ Praha を目指して Wien を出発し、皇帝 Franz I. (1768-1835) の末弟であった 3 人目の契約者の Austria 大公 Rudolph (1788-1831) も、皇帝一家と共に Ofen (Buda, 現在の Budapest の一部) を目指して、5 月 4 日に Wien を離れた。

 Beethoven の重要な後援者であると同時に彼の生徒でまた友人でもあった Rudolph 大公との別離を悲しんだ Beethoven は、この時期に作曲していた Sonate für Klavier in Es-dur (Nr. 26, op. 81a) の第 1 楽章に、„Das Lebewohl” (Les Adieux) という標題を付けた。
この楽章の手稿譜には Beethoven によって以下の様に書かれている

 


Das Lebewohl (別れ)
1809 年 5 月 4 日
敬愛する Rudolph 大公殿下の出発に際して 

 

 


この先は次回
»Klavierkonzerte Teil 22«
[Archiv / Musik 2015 Nr. 5]
へ続く

 

 


上部の写真:


1809 年に Beethoven が引っ越しをした
Walfischgasse
にある住宅から見えたという
その付近の
Wien の市壁と斜堤

 

 

 

 

 

 

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