Musik 2015 Nr. 5

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Klavierkonzerte

 


Teil 22

 

 

 

 

 

 

 


»Klavierkonzerte Teil 21«
[Archiv / Musik 2015 Nr. 4]
より続く

 


Beethoven による
5 曲の Klavierkonzerete の
作曲の経緯
について

 

 Ludwig van Beethoven (1770-1827) による 5 作目で完成された最後の Konzert für Klavier und Orchester in Es-dur の、主要作曲時期である 1809 年の初春から、Wien の町は次第に迫り来る Napoléon 軍の危機に晒され、Wien に在住の貴族達は順次疎開を始めたが、5 月 4 日には Austria 大公 Rudolph (1788-1831) も皇帝一家と共に Wien を離れた。
丁度この年から翌年に掛けて Beethoven は Sonate für Klavier in Es-dur (Nr. 26, op. 81a) の作曲も進めていたが、彼としては大変珍しく、その第 1 楽章に „Das Lebewohl” という標題を付けて、Rudolph 大公との別離を悲しんだ。

 更にこの Sonate für Klavier の第 2 楽章には „Abwesenheit” (不在)、終楽章には „Das Wiedersehen” (再会) という表題が付けられており、Beethoven による作品中では珍しく、音楽外の内容が詩的に扱われて表現されており、それを直接容易に感受する事が出来る。
この作品の現在では失われてしまった第 3 楽章の手稿譜冒頭には、「敬愛する Rudolph 大公殿下の到着 1810 年 1 月 30 日」 と Beethoven によって書き込まれており、皇帝一家及び Rudolph 大公は Napoléon 戦争による戦禍を避けて、殆ど 9 箇月間 Wien から疎開していた事が分かる。

 この Sonate für Klavier は完成した翌年の 1811 年に、Leipzig の Breitkopf & Härtel 社によって出版されたが、Beethoven が独語で与えた表題が仏語に訳されており、この Sonate 自体が現在でもしばしばその仏語による „Les Adieux” という名で呼ばれている。
これに対して Beethoven は、独語の „Lebewohl” という言葉は „Les Adieux” とは全く意味の違う言葉で、„Das Lebewohl” とは心で結ばれあったとても親密な関係の人物に用いるのであって、一方仏語による „Les Adieux” という表現は不特定の人物を対象として用いる言葉だと、Breitkopf & Härtel に対して抗議している。
彼自身によるこの言葉はそのまま、Beethoven と Rudolph 大公との間に成立したとても親密な感情を証言している。

 1809 年初春から殆どの貴族達が次第に Wien から避難した中、Beethoven を含むその他の市民達は町に留まらざるを得ず、5 月になっていよいよ Napoléon 軍との戦闘が必至な状況になると Beethoven は、1794 年以来同じく Bonn から Wien に移り住んでいた彼の弟の、Kaspar Anton Karl van Beethoven (1774-1815) が当時住んでいた、Rauhensteingasse の住居に避難した。
Napoléon 軍は遂に 5 月 13 日に Wien に到り、市壁外からの砲撃が始まると Beethoven は地下室へ避難し、爆撃の続く間両耳を枕で塞いで、耳疾のせいで大変敏感になっていた聴覚を砲撃の大音量から守ったという記録が残されている。

 この戦禍の最中の 5 月 31 日に、Beethoven が 1792 年に Bonn から Wien へ出るきっかけとなった嘗ての師、Joseph Haydn (1732-1809) が亡くなった。
死因は老衰による衰弱であったが Haydn の最後の言葉は、隣家が Napoléon 軍の砲弾を被弾した時に、自身の従僕を落ち着かせようとするものであったと伝えられている。

 Haydn は Meidling の Hundsturm 墓地に埋葬されたが、葬儀に Beethoven が立ち会ったかどうかは明らかになっていない。
Napoléon 戦争による混乱が漸く終息したそれから 5 年後に、Haydn の教え子の一人でその後彼と特に親密な関係を築いた作曲家の Sigismund von Neukomm (1778-1858) は、Hundsturm 墓地に Haydn の墓碑を献納した。この墓碑は現在 Haydnpark となっているその場所に残されているが、墓碑銘下部には „Non omnis moriar” (私の全てが死ぬのではないであろう) という Latin 語の Text に基づく、Neukomm による 5 声部の謎 Kanon が書かれている。

 その年の 7 月 5 日から 6 日に掛けての、Wien 郊外の Wagram の戦いにおける Austria 軍の Napoléon 軍に対する降伏によって、7 月 12 日に Znojmo (現在は Czech 共和国の南端で Austria 共和国との国境から間近に位置する町) に於いて休戦協定が結ばれたが、Wien の町では食料を始めとする物資不足による物価上昇、及び住宅の所有者に課せられた強制出資によって、経済状況はかなり悪化していた。
Wien 市民にとっての楽しみの場となっていた Prater と Augarten は、7 月末になって漸く再び市民に解放された。

 こういう状況の中 Beethoven は同年 8 月 8 日付で、Breitkopf & Härtel 社に宛てて以下の様な手紙を送っている

 


 「 [・・・] ひょっとして Goethes [Johann Wolfgang von Goethe, 1749-1832] と Schiller [Friedrich von Schiller, 1759-1805] の完全な作品全集版を用意して頂けないだろうか。そちらの膨大な文学作品の蔵書の中からなら手に入るでしょう。
その代わりに私の方からは何か世界中に売り切れる様なものを送りましょう。
この 2 人は Ossian [Scotland の伝説の英雄詩人] や、Homer [古代ギリシャの詩人] と並んで私のお気に入りの詩人です。尤もこの後者の方を私は残念ながら翻訳でしか読む事が出来ませんが。
これ等をあなたの文学的宝庫から私に揃えて貰えるなら、私は未だこの夏の残りを何処か幸せな片田舎で過ごす事が出来ればと希望しているだけに、尚一層私に最も大きな喜びをもたらすでしょう。 [・・・] 」

 

 

 


Beethoven による
手紙の原文は省略
日本語訳及び [ ] 内の補注は執筆者による

 

 


この先は次回
»Klavierkonzerte Teil 23«
[Archiv / Musik 2015 Nr. 6]
へ続く

 

 


Sigismund von Neukomm
に関しては
[Archiv / Kommentar 2014 Nr. 8]
以降を参照

 

 


上部の写真:


1809 年 7 月 5 日から 6 日に掛けての
Wien 郊外 Wagram に於ける
Napoléon 軍と
Austria 大公で Teschen 公爵 Karl (1771-1847)
大元帥の指揮する
皇帝軍との戦い

 

 

 

 

 

 

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