Musik 2015 Nr. 6

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Klavierkonzerte

 


Teil 23

 

 

 

 

 

 

 


»Klavierkonzerte Teil 22«
[Archiv / Musik 2015 Nr. 5 ]
より続く

 


Beethoven による
5 曲の Klavierkonzerete の
作曲の経緯
について

 

 Ludwig van Beethoven (1770-1827) による 5 作目で完成された最後の作品となる、Konzert für Klavier und Orchester in Es-dur の主要作曲時期は、1809 年の初春以降で恐らくその年の 10 月頃に完成されている。
この作品の初版の楽譜は、1807 年の Wien 訪問の折に Beethoven と知り合って親しくなった、Klavier 奏者で音楽出版業も営んでいた Muzio Clementi (1752-1832) によって、作品完成の翌 1810 年に London に於いて出版された。
Muzio Clementi は Beethoven による op. 73 から op. 82 迄の作品の London に於ける出版権を得て、1810 年 8 月から順次それらの出版を行っていたが、その最初の作品がこの Konzert für Klavier und Orchester in Es-dur であった。

 この Konzert はこれに先立つ 4 作目の Konzert für Klavier und Orchester in G-dur (op. 58) と同じく、1808 年からこの時期の Beethoven の唯一の生徒となっていて、Klavier の演奏と作曲もする Austria 大公 Rudolph (1788-1831) に献呈された。
この Konzert の非公式な初演は London に於いて初版譜が出版された翌 1811 年 1 月 13 日に、Franz Joseph Maximilian von Lobkowitz 侯爵 (1772-1816) の Wien の宮殿に於いて行われたが、その独奏 Klavier は Rudolph 大公が演奏した。

 非公式な初演が行われた翌月の 2 月に、大陸側に於ける初版譜が Leipzig の Breitkopf & Härtel 社より出版された。
公開初演は同年 11 月 28 日に Leipzig の Gewandhaus に於いて、後に Anhalt-Dessau の宮廷楽長に就任する Johann Christian Friedrich Schneider (1786-1853) の独奏によって行われた。

 これに続く Wien での初演は、更に翌年の 1812 年 2 月 11 日に Wien の宮廷劇場の一つ、Theater am Kärntnertor に於いて、貴婦人による慈善団体の為に開催された演奏会で行われた。この Wien 初演では Beethoven の嘗ての生徒の一人、Carl Czerny (1791-1857) に Klavier の独奏が任された。

 この Wien 初演の演奏会で Beethoven による新作のこの Konzert は、その曲の内容に相応しい聴衆からの反応を得る事は出来なかった。その演奏会に同席した Beethoven の知人の一人で、丁度この時期を挟む 1811 年から 1814 年迄、この作品の Wien 初演が行われた Theater am Kärntnertor の宮廷劇場作家を務めていた Austria の詩人、劇作家で同時に批評家としても活動していた Ignaz Franz Castelli (1781-1862) に拠れば、この高貴な作品がその Wien 初演で肯定的な受容を得るのに失敗したその原因に関して、以下の様に書かれている。

 


「もしこの作品がそれに値する拍手喝采を得る事が出来なかったとしたら、その理由の一部はこの作品の主観的な性格に求める事が出来る一方、それ以外の理由は聴衆の客観的な天分にある。
自身の能力に誇り高き確信を抱いている Beethoven は、決して大衆を対象にして曲を書く事をしない。彼は [自身の作品の聴衆に対して] 理解力と情操を要求するが、その意図的な [作品理解の] 難易度の高さの為に、見識を有した人達からのみ初めて彼はそれ等を得る事が出来るが、こういう演奏会にはそういう人達を余り多く見出す事が出来ない。これがこの真実の理由となる。
この作品はこの演奏会には相応しく無かった。」

 


 この Konzert für Klavier und Orchester in Es-dur は、Beethoven 自身が公開の場で演奏しなかった唯一の Konzert となった。
これはこの時期に進行していた彼の耳疾が原因だと考える事が出来るが、これによって Beethoven は Klavier 奏者としては Wien の音楽界から引退していく事になる。

 その後 Beethoven は 1814 年の秋から翌年初頭の冬に掛けて、更なる Klavierkonzert の作曲を手掛けている。これがもし完成されていれば Beethoven による Konzert für Klavier und Orchester in D-dur (Nr. 6) となったものだが、作曲は第 1 楽章の途中で中断されて未完に終わった。

 この Konzert の第 1 楽章の為の凡そ 70 頁に及ぶスケッチが残されているが、Beethoven はそれを基にして曲の総譜化にも取り掛かっており、曲頭以降独奏 Klavier が加わってからの、第 2 提示部中の第 2 主題の提示の部分迄が書かれていて、Beethoven が残した未完の作品群の中では最も長く、作曲の段階としても最も進んだものとなっている。
しかしその総譜は書き上げられた部分でも抜けている箇所があって、Beethoven の逡巡やこの作品への満足出来ない様子も同時に伺う事が出来る。

 彼がこの作品を誰の為に、またはどういう機会の為に書き始めたのか、またその中断の原因が 1815 年に計画されていてその為にこの作品を書いていたと推測する事も出来る、慈善演奏会が実現しなかった事にあるのか、或は自身で独奏 Klavier を演奏するつもりであったが、耳疾が原因でそれは最早不可能となった事によるのか等、考える事が出来る理由は幾つかあるが、何れも明らかにはなっていない。

 この未完の Klavierkonzert の残された楽譜から分かる特徴としては、既に Beethoven が彼の 4 作目の Konzert für Klavier und Orchester in G-dur から示し始めたものだが、それ以前の一般的な Klavierkonzert の形式と比較して、より Symphonie 的な性格を帯びて来ているという点があり、この作品の場合 Beethoven の個人的な作曲様式の観点からは、中期から後期への過渡的段階にあると把握する事が出来る。
この彼自身の作曲様式の転換期にあって、それ以前に構想したものに満足出来なくなったか、或は疑問を感じ始めてその作業を途中で放棄したというのも大いに可能性があって、作曲中断の理由としては考慮すべきだと思われる。

 

 


Castelli による
演奏会批評の原文は省略
日本語訳及び [ ] 内の補注は執筆者による

 

 


Muzio Clementi
に関しては
[Archiv / Kommentar 2015 Nr. 6 ]
以降を参照

 

 


上部の写真:


Konzert für Klavier und Orchester in Es-dur の
非公式な初演が行われた
Wien の Lobkowitz 侯爵邸

左側は帝室宮廷教区教会の Augustiner 教会


風景画家及び銅版画家の
Salomon Kleiner (1700-1761)
による銅版画

1724 年制作

 

 

 

 

 

 

Bemerkungen sind geschlossen.