Musik 2016 Nr. 2

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Symphonie Nr. 7 in A-dur, op. 92

 


Teil 4

 

 

 

 

 

 

 


»Symphonie Nr. 7 in A-dur, op. 92 Teil 3«
[Archiv / Musik 2016 Nr. 1]
より続く

 

 1813 年の聖週間から復活節にかけての期間中に、Ludwig van Beethoven (1770-1827) が 2 回の演奏会を開催しようと目論んだ、Wien 大学の大講堂の使用許可の申請は間も無く却下される。
その間当初は聖週間中の 4 月 15 日に試演及び練習が計画されていたが、その時期は写譜士の大変忙しい期間で、楽譜がその期日に間に合わなかったためと、Beethoven の体調不良も重なってその試演は何度か延期され、最終的には 4 月 21 日に Wien 王宮内の Austria 大公 Rudolph (1788-1831) の宮殿に於いて行われる事となった。
この時には新作の Symphonie in A-dur (op. 92) と Symphonie in F-dur (op. 93) が初めて試演され、祝祭劇 „Die Ruinen von Athen” (Athen の廃墟) への付随音楽 (op. 113) 及び、同じく祝祭劇 „König Stephan” (Stephan 王) への付随音楽 (op. 117) の、それぞれの序曲が練習された。

 この 4 月 21 日に行われた練習の前には、19 日に試演が行われる事が予定されていたが、Beethoven が突然の発熱に襲われて意識を失い Rudolph 大公の許へ赴く事が叶わなかったし、またその翌日にも未だ出掛けるのは無理だという事を、翌 20 日付の大公宛ての手紙で Beethoven は報告している。
しかしその翌日には必ず恢復するだろうから、明日の午後 3 時丁度に練習を開始出来る様に、その 15 分前には奏者達を集めて貰えないかと頼んでいる。
そうすれば 2 曲の序曲の練習をする時間もあるだろうが、Symphonie の練習だけならば Horn は 2 本だけで出来るけれども、もし大公が序曲の練習も希望するのであれば Horn は 4 本必要になると注意を促している。
更に Beethoven はその折の新作の Symphonie の試演の為には、少なくとも Violine が 4 人+ 4 人、Viola が同じく 4 人、Violoncello と Kontrabaß には各 2 人の奏者という弦楽器の編成を希望している。

 Beethoven はこの試演が 21 日に行われた翌日に、彼と特に親しかった友人の一人で Hungary 政府に秘書として勤めていた、Nikolaus Zmeskall von Domanovecz (1759-1833) を Hungary 政府の在 Wien 宮廷官房に訪ねるが、彼とは行き違いで会う事が出来なかった。
Zmeskall は Violoncello を演奏し彼の作曲による作品も残されているが、Beethoven はその日の内に Zmeskall に手紙を書き、前日に行われた Symphonie の試演では、この頃 Wien で活動していた Bohemia 出身の Violoncello 奏者 Anton Kraft (1752-1820) の息子で、父親と同じく Franz Joseph Maximilian von Lobkowitz 侯爵 (1772-1816) の宮廷楽団の Violoncello 奏者であった、Nikolaus Kraft (1778-1853) が今回の Orchester を率いていたにも関わらず、その演奏は特にひどいものだったと伝えている。
Nikolaus Kraft は Beethoven による Konzert in C-Dur für Klavier, Violine, Violoncello und Orchester、通称 „Tripelkonzert” が、これに先立つ 1808 年 5 月に Wien に於いて初演された際の、Violoncello の Solo を担当している。

 Beethoven がこの時に計画していたのは、この年の 4 月中に演奏会を開催する事で、最も望ましいのはその中でも聖週間の期間中であったが、その為に 21 日に Orchester の練習が実際に行われる以前には、Rudolph 大公が Beethoven にそれを計画する時期としてはもう既に遅すぎると言っていたが、21 日にはもし大公が Lobkowitz 侯爵に会う機会があったら話してみると言った様で、それに関して Beethoven は Zmeskall に相談したかったのだと窺う事が出来る。

 その 2 日後の 4 月 23 日には Rudolph 大公が言っていた様に、彼が Lobkowitz 侯爵にこの件の話をしてくれるという事になった。
実際に Lobkowitz 侯爵が大公の所に出向くのは更にその 2 日後の 4 月 25 日ではあったが、Beethoven は近日中の演奏会開催に依然強い希望を抱いていた様子で、その日程の選択の相談を Zmeskall としたがっており、また同時に Pest に於いてこの前年に、Beethoven の作品他を以て落成式の行われた劇場の監督であった、Mark von Szen-Ivanyi の下での当劇場を借りての演奏会開催の可能性も考えていた。

 4 月 26 日に Beethoven は Lobkowitz 侯爵から 1 日間の彼の宮殿の使用許可を得たが、但しそれは 5 月 15 日かそれ以降というもので、その時期になると Wien の社交界の多くの人々は夏の休暇で市内から出てしまい、演奏会からの収益を目指していた Beethoven にとっては、「それでは全く意味が無いので、それならば演奏会の開催などもう殆ど考える気が無い」 と自身で発言するような結果になってしまった。

 

 


Ludwig van Beethoven
による手紙等の原文は省略
日本語訳は執筆者による

 

 


この先は次回
»Symphonie Nr. 7 in A-dur, op. 92 Teil 5«
[Archiv / Musik 2016 Nr. 3]
へ続く。

 

 


Austria 大公 Rudolph
に関しては
[Archiv / Kommentar 2016 Nr. 2]
を参照

 

 


上部の写真:


Wien の Lobkowitz 宮

正面の入口

 

 

 

 

 

 

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