Musik 2016 Nr. 3

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Symphonie Nr. 7 in A-dur, op. 92

 


Teil 5

 

 

 

 

 

 

 


»Symphonie Nr. 7 in A-dur, op. 92 Teil 4«
[Archiv / Musik 2016 Nr. 2]
より続く

 

 Ludwig van Beethoven (1770-1827) が 1813 年の聖週間中に開催を計画し、その演奏会の為の会場として希望した Wien 大学の大講堂の使用は許可されず、それに次いで打診した Franz Joseph Maximilian von Lobkowitz 侯爵 (1772-1816) の宮殿の使用は許可されたものの、5 月 15 日以降という日程では、Beethoven が目指していた演奏会からの収益という点で、殆ど意味が無いという結果になった。
その次に Beethoven が考えたのは、Augarten 内の庭園 Hall で行われていた演奏会に於ける自作品の演奏で、これが若し実現していれば Symphonie in A-dur の初演となった演奏を行おうと計画した。

 この Symphonie in A-dur の各声部の楽譜は、これに先立つ 1812 年の夏に Austria 大公 Rudolph (1788-1831) が総譜からの写譜で既に作成していた為、Beethoven は 4 月 30 日に手紙で、1792 年から 1801 年迄の間 Rudolph 大公の教育担当官を務めていた、宮廷顧問官 Joseph Anton Ignaz Edler von Baumeister (1750-1819) に手紙を書いて、Rudolph 大公が作成させた声部譜は後に返却するのでその楽譜と、その基として使用し未だ Beethoven に返却されていなかった総譜を送ってくれる様に頼んでいる。

 Wien の嘗ての皇帝の狩猟場の一部であった Augarten では、Wien 生まれの Violine 奏者、Ignaz Anton Schuppanzigh (1776-1830) が 1795 年以来指揮者として、Wien で当時評判になっていた Augartenkonzert を毎年催していた。
Beethoven とは既に懇意な関係にあった Schuppanzigh が主催するこの演奏会の中で、自身の新作の Symphonie を演奏しようと Beethoven は考えた。しかしこの年の Augartenkonzert は、上記の Beethoven による手紙が書かれた翌日の 5 月 1 日の 1 回だけ開催されており、恐らく練習時間の不足という理由から、Symphonie in A-dur はこの時には演奏されなかった。
その代わりにこの演奏会では Beethoven の作品の中からは、Symphonie in c-moll (Nr. 5, op. 67) と、Austria の詩人 Christoph Kuffner (1780-1846) による悲劇 „Tarpeja” への付随音楽から „Triumphmarsch” (凱旋行進曲) in C-dur (WoO 2a) の 2 曲が演奏された。

 またこの前年の 1812 年 5 月以来 Beethoven は Graz の Joseph von Varena と連絡を取り合って、Graz の Ursula 修道院女子学校の為の慈善演奏会に於いて、Symphonie in A-dur 及びそれに続く新作の Symphonie in F-dur を提供する事を提案している。
この演奏会は 1813 年 6 月 6 日に開催されたが、そこで実際に演奏されたのはこの 2 曲の新作の Symphonie では無く、既に何年も前に完成、初演されていた Symphonie in B-dur (Nr. 4, op. 60) と、この前の月の Augartenkonzert の際にも採り上げられた Symphonie in c-moll の 2 曲であり、既に前年に完成していた Symphonie in A-dur の初演は更に先送りされる事となった。

 この Graz での慈善演奏会に先立つ 5 月 27 日に、既に Beethoven は夏の休暇で Wien から Baden に移っていた事が分かっている。
Baden に於いて Beethoven は Klavier の教師、及びそこでの音楽的催し物の監督の仕事を引き受ける事になった。

 Beethoven は 1809 年に上述の Rudolph 大公、 Franz Joseph Maximilian von Lobkowitz 侯爵、及び Ferdinand von Kinsky 侯爵 (1781-1812) との間で締結された、Beethoven の終生に亘る報酬支払いの契約に基づく、合計で 4,000 Florin の年俸を得る事を条件に、Westfalen 王国の宮廷楽長職を辞退して Wien に留まっていたが、Lobkowitz 侯爵は長年に亘る芸術への寛大な支援と、それに Napoléon 戦争の影響が相俟って、この頃は殆ど破産に近い状態に陥ってしまい、1811 年 9 月以降 Beethoven と契約した年俸の支払いが滞っていた。

 また Kinsky 侯爵は 1812 年 11 月 3 日に、領地の Weltrus (Bohemia 王国の首都 Praha の凡そ 25 ㎞ 北に位置する Veltrusy) を視察中の落馬事故が原因で亡くなっている。Beethoven との間の契約では、年俸の支払い義務を相続人が継承すると定められていたが、それ以後の支払いは同様に滞っていた。
Beethoven はこれに対して 1813 年 7 月に、両侯爵家の財産管理人宛てに督促の手紙を送っており、後には Wien に於いて提訴する事になる。

 Beethoven と年俸支払い契約を結んだ貴族の内、Rudolph 大公だけが契約通りの支払いを実行していたが、尚 Beethoven にとって不運な事には、1809 年の第 5 次対仏大同盟戦争の賠償金支払いが原因で、1811 年 2 月 20 日に Austria 帝国は国家破産に陥り、その結果同年 3 月 15 日以後の新たな Wien 通貨としての貨幣価値が、それ以前の 1/5 に引き下げられ、1809 年からの年俸支払い契約による収入を当てにしていた Beethoven にとっては、非常に厳しい経済状況下に置かれる事となった。

 

 


この先は次回
»Symphonie Nr. 7 in A-dur, op. 92 Teil 6«
[Archiv / Musik 2016 Nr. 4]
へ続く。

 

 


Augarten
に関しては
[Archiv / Kommentar 2016 Nr. 3]
を参照

 

 


上部の写真:


Beethoven が
1812 年の夏の休暇で訪れた
Baden の
中心地の広場


皇帝 Franz
(1768-1835、1792 年から 1806 年迄は神聖 Roma 帝国皇帝 Franz II.
1804 年から 1835 年迄は Austria 帝国皇帝 Franz I.) は
1796 年から 1834 年迄の間
毎年夏の休暇を Baden で過ごした


広場右手の建物は
Franz I. が 1813 年に
Esterházy de Galantha 侯爵 Nikolaus II. (1765-1833) より
自身の夏の滞在の為に購入した宮殿

France の建築家
Charles Moreau の設計による

 

 

 

 

 

 

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