Musik 2016 Nr. 7

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Symphonie Nr. 7 in A-dur, op. 92

 


Teil 9

 

 

 

 

 

 

 


»Symphonie Nr. 7 in A-dur, op. 92 Teil 8«
[Archiv / Musik 2016 Nr. 6]
より続く

 

 London に於いて 1813 年に創設された Philharmonic Society (後の Royal Philharmonic Society) の創設に携わった会員で、Klavier 奏者、また作曲もした Charles Neate (1784-1877) は 1815 年に大陸に渡り、München で数箇月間宮廷楽長の Peter von Winter (1754-1825) の下で対位法を学んだ後、5 月になって Wien にやって来た。

 その頃 Wien で毛織物商を営んでいた Johann von Häring は、仕事でしばしば Wien と England の間を行き来しており、英語が流暢に話せる程に楊能であったために、Ludwig van Beethoven (1770-1827) と England の出版社や音楽家とのやり取りを時折手伝うという事をしていた。

 1815 年 5 月に Wien にやって来た Charles Neate は、この Johann von Häring の紹介によって Beethoven との知己を得る。
Beethoven は Wien に出て来て間も無い 22 歳の時に Karl Alois Lichnowsky 侯爵 (1761-1814) の下で知り合い、それ以来その作品とまた教育者としての活動も併せて高く評価していた、Emanuel Aloys Förster (1748-1823) に Neate を紹介し、翌年 2 月迄の Wien 滞在中 Neate は Förster の下で学ぶ事が出来た。

 既に初演を終えていた Symphonie in A-dur を含む、この時期に作曲された作品群の England に於ける出版を考えていた Beethoven は、その意向を London の George Smart (1776-1867) に伝えて、出版社との仲介を依頼する手紙を既に 1815 年 3 月 19 日に送っていたが、丁度 Wien に滞在している Charles Neate にも並行して同様の事を頼んでみようと考えた様で、その為に Sigmund Anton Steiner (1773-1838) に対して Beethoven が彼から借りた 1,500 Gulden の借金の返済の代わりに、丁度同時期に譲り渡していた 13 曲の作品群の内、Symphonie in A-dur (Nr. 7, op. 92)、Quartett für Streicher in f-moll (Nr. 11, op. 95)、Terzett „Tremate, empi, tremate” für Sopran, Tenor, Baß und Orchester (op. 116)、Sonate für Violine und Klavier in G-dur (Nr. 10, op. 96) と Ouvertüre Zur Namensfeier in C-dur (op. 115) の総譜をすぐにまた返却するので、今 Wien に来ている来訪者 [Neate] に自分の新しい作品として見せる為に、一時貸して貰えないだろうかと頼んでいる。

 その翌月になると Beethoven は更にこれに加えて、当時 London で演奏会の興行をしていた Johann Peter Salomon (1745-1815/11/25) に、当地での作品出版の為の出版業者との仲介を頼んでいる。
この時に Beethoven は Salomon に対して以下の作品を列挙している
(Beethoven の挙げた順序による)。


Trio für Klavier, Violine und Violoncello in B-dur (op. 97 „Erzherzog”)
Sonate für Violine und Klavier in G-dur (Nr. 10, op. 96)
Symphonie in A-dur (Nr. 7, op. 92)
   [Beethoven自身による 「最も優れた作品」 という注記付き]
Symphonie in F-dur (Nr. 8, op. 93)
Quartett für Streicher in f-Moll (Nr. 11, op. 95)
„Fidelio”, Oper (op. 72)
„Der glorreiche Augenblick”
   Kantate für zwei Soprane, Tenor, Baß, Chor und Orchester (op. 136)
„Wellingtons Sieg oder Die Schlacht bei Vittoria” (op. 91) 総譜及び Klavier 用編曲譜

 

 これ等の今回列挙された曲の内 Fidelio と Der glorreiche Augenblick を除く他の曲は、既にこの年の 3 月に London の出版社への仲介を George Smart にも頼んでいる。

 またこの Johann Peter Salomon への依頼の中で Beethoven は、1799 年の演奏旅行の折に Wien を訪れて Beethoven と知り合った Klavier 奏者の Johann Baptist Cramer (1771-1858) が、 London で楽譜出版社の経営もしていると聞いたので、もし彼がこれ等の出版権を買い取ってくれるとしたら、他の出版社よりはよっぽど嬉しいと書いている。
Johann Baptist Cramer は Charles Neate と同じく、London の Philharmonic Society の創設に携わった会員で、Beethoven がその Klavier の演奏と、彼によって作曲された作品を高く評価した数少ない音楽家の一人であった。

 Johann Peter Salomon は嘗て Bonn の宮廷 Orchester の Violine 奏者を務めていた人で、その後 Preußen 国王 Friedrich II. (1712-1786) の弟の Heinrich von Preußen (1726–1802) の、宮廷 Orchester の Konzertmeister に就任する。
しかしこの Orchester が後に解散される事になり、Salomon は London に渡って、当初は弦楽四重奏団の Violine 奏者として活動していたが、その後音楽興行を営む様になり、特に 1791 年から翌年に掛けてと 1794 年からその翌年に掛けての2回、Joseph Haydn (1732-1809) を London に招聘して一連の演奏会を成功させた事で高名となる。
Salomon 一家と Beethoven の家族は、Bonn に於いて同じ Bonngasse に住んでいた親しい家族で、Ludwig が生まれる以前に既に Salomon は Bonn の町を後にしていたが、その後も度々故郷を訪れていて、その際に Ludwig と知り合っていた。

 

 


Ludwig van Beethoven
による手紙の原文は省略
日本語訳及び [ ] 内の補注は執筆者による

 

 


この先は次回
»Symphonie Nr. 7 in A-dur, op. 92 Teil 10«
[Archiv / Musik 2016 Nr. 8]
へ続く

 

 


上部の写真:


Bonngasse 551 の
Ludwig van Beethoven の生家

ここで Ludwig は
Johann Peter Salomon と知り合う


この建物は改装されて現存している

 

 

 

 

 

 

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