Musik 2016 Nr. 8

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Symphonie Nr. 7 in A-dur, op. 92

 


Teil 10

 

 

 

 

 

 

 


»Symphonie Nr. 7 in A-dur, op. 92 Teil 9«
[Archiv / Musik 2016 Nr. 7]
より続く

 

 1812 年から 1814 年の間に初演を迎えた作品群から、8 作品の London に於ける出版の為の出版業者との仲介を依頼された Johann Peter Salomon (1745-1815/11/25) は、早速 London に於いて 音楽出版業や楽器の販売もしていた Robert Birchall (ca. 1750-1819) に接触を行った様子で、その後 1815 年 10 月 28 日付けで Ludwig van Beethoven (1770-1827) は、New Bond Street の Birchall 宛てに手紙を送っている。

 その手紙の中で Beethoven は、„Wellingtons Sieg oder Die Schlacht bei Vittoria” (op. 91) の Klavier 用編曲譜は、何日か前に London の Thomas Coutts & Co. に宛てて発送したので、そこに行けば近い内に楽譜を受け取る事が出来るが、その印刷の為の製版については可能な限り急いで貰いたい事、またこの曲の London に於ける出版の日程については、自分が決定するという事を書いている。

 この曲以外にも Birchall は Beethoven から、Symphonie in A-dur (Nr. 7, op. 92) の Klavier 用編曲版、Sonate für Violine und Klavier in G-dur (Nr. 10, op. 96) と、Trio für Klavier, Violine und Violoncello in B-dur (op. 97 „Erzherzog”) も買った様で、その 3 曲についても Birchall は出来るだけ早く受け取るだろうが、これ等に関しては印刷をそう急ぐ事は無い。但し出版の日程は自分が決める自由を持ちたいと書いている。

 上記の手紙に中で „Wellingtons Sieg oder Die Schlacht bei Vittoria” に関して、出版の準備を急いで貰いたいと Beethoven が書いているのは、この曲を彼は既に Wien の Sigmund Anton Steiner (1773-1838) に譲り渡していたが、その Wien に於ける出版の準備が進んでいて、それと Londen での出版の日程を合わそうとしていたと考える事が出来る

 上記の手紙を書いた時点で Beethoven は、Symphonie in A-dur の Klavier 用編曲版を London に宛てて未だ発送していなかった事が分かるが、その直後の 10 月 30 日に Beethoven は、Sigmund Anton Steiner に宛てて以下の様な手紙を送っている。

 


親愛なる Steinaer !
自分はそれに値するという訳ではないのですが
自分の作曲をとても気に入ってくれている Poland のある伯爵夫人がいます。
その人が Symphonie in A-dur の Klavier 用編曲版を
全く私の意図する通りに弾きたいと願っていたのですが
彼女が今日と明日だけ Wien に滞在します。
そして可能ならば彼女は私の前でそれを演奏出来ればと願っているのですが
悪魔の Diabelli の書いたもので良いので
今日か明日の何時間かだけそれを貸して頂けないだろうか。
それを使わして貰う事によってあなたには決して不利益が生じる事は無いと誓います。

 


 上記の手紙で Beethoven が 「悪魔の Diabelli」 と書いているのは彼特有の冗談で、それは彼と親しかった作曲家の Anton Diabelli (1781-1858) を指している。
この手紙が書かれた時点で既に Diabelli は、Beethoven の Symphonie in A-dur の 2 手及び 4 手による Klavier 用編曲版を書いており、それを Beethoven も知っていたが、Wien に於ける Symphonie in A-dur の出版は、これより 1 年近くも後の 1816 年 11 月となってしまった事から分かる様に、未だこの時点では Beethoven 自身か或は Beethoven に依嘱された誰かによる、このSymphonie の Klavier 用編曲版は出来ていなかったので、Beethoven は急遽 Diabelli による編曲版手稿譜を希望したと推測する事が出来る。

 同年 11 月 22 日に Beethoven は Symphonie in A-dur に関連して、当時 London で活動していた嘗ての Beethoven の数少ない生徒の一人、Ferdinand Ries (1784-1838) に手紙を送り、主に以下の様な内容を伝えている。

 


今日 Symphonie in A-dur の Klavier 用編曲版を
London の Thomas Coutss & Co. に宛てて発送しました。
この Symphonie は来年の 3 月頃に必ず出版の運びとなる様に。
この日程は自分が決定しました。
この出版の日程に関しては
自分がもっと早い日程を決めていたのに
余りにも長く延期されています。
愛する Ries 君には
これが実際に出版される事によって
漸く自分も報酬を得る事が出来るという事もあって
この件は完遂されるよう是非しっかりとやって貰いたいとお願いしたい。

 

 [ここで Beethoven が書いている出版の遅れについては、Symphonie in A-dur (op. 92)、Sonate für Violine und Klavier in G-dur (op. 96) と、Trio für Klavier, Violine und Violoncello in B-dur (op. 97 „Erzherzog”) の London に於ける出版が、同じくこれ等の曲を Wien で手に入れた Sigmund Anton Steiner による Wien での出版が遅れた為に、何度も延期されているという経緯がある。]

 またこの手紙の中でこれ等の内容に続いて、Beethoven の現在の経済的困窮の具体的な様子が Ries に打ち明けられている。
Beethoven は 1809 年に、Westfalen 王国による宮廷楽長職への招聘を辞退して Wien に留まる事を条件に、Austria 大公 Rudolph (1788-1831)、Franz Joseph Maximilian von Lobkowitz 侯爵 (1772-1816)、及び Ferdinand von Kinsky 侯爵 (1781-1812) との間で、Beethoven の終生に亘る年間合計で 4,000 Florin の年俸支払いの契約を締結していた。

 しかしその後 Lobkowitz 侯爵は長年に亘る芸術への寛大過ぎる程の支援と、それに Napoléon 戦争を原因とする経済不況の影響が相俟って、殆ど破産に近い状態に陥ってしまい、1811 年 9 月以降 Beethoven への年俸の支払いが滞っていた。
また Kinsky 侯爵は 1812 年 11 月 3 日に、領地の Weltrus (現在の Czech 共和国の首都 Praha の凡そ 25 ㎞ 北に位置する Veltrusy) を視察中に起こった落馬事故が原因で亡くなってしまう。Beethoven と彼等 3 人の貴族との間の契約では、年俸の支払い義務を相続人が継承すると定められていたが、それ以後の支払いは Lobkowitz 侯爵と同様に滞っていた。

 Beethoven と年俸支払い契約を結んだ貴族の内、Austria 大公 Rudolph だけが契約通りの支払いを実行していたが、尚 Beethoven にとって不運な事には、1809 年の第 5 次対仏大同盟戦争の賠償金支払いが原因で、1811 年 2 月 20 日に Austria 帝国は国家破産に陥り、その結果同年 3 月 15 日以後の新たな Wien 通貨としての貨幣価値がそれ以前の 5 分の 1 に引き下げられ、1809 年からの年俸支払い契約による収入を当てにしていた Beethoven にとっては、非常に厳しい経済状況下に置かれる事となった。

 こういう厳しい現実の下、家賃を年間 1,000 Florin も払わざるを得ない生活は正に惨めだと、今回の手紙で遠く離れた Ries に訴えている。
そういう状況に加えて更に、肺結核を病んでおりその家計と治療費を援助する為に、それ迄に合計で 10,000 Florin も注ぎ込んだ弟の Kaspar Anton Karl van Beethoven (1774-1815) は、この年の 11 月 15 日に亡くなってしまう。

 こういう本当の苦境を打ち明ける様な手紙を、Beethoven は親密な友人にも極めて稀にしか書かないので、Wien に於いて培われた Beethoven と Ries との間のとても親しい関係を、この手紙を通して改めて窺い知る事が出来る。

 

 


Ludwig van Beethoven
による手紙の原文は省略
日本語訳及び [ ] 内の補注は執筆者による

 

 


この先は次回
»Symphonie Nr. 7 in A-dur, op. 92 Teil 11«
[Archiv / Musik 2017 Nr. 1]
へ続く

 

 


上部の写真:


1809 年 7 月 5 日から翌日に掛けて
皇帝 Napoléon I. (1769-1821)
の率いる France 軍と
大公 Karl (1771-1847)
の率いる Austria 軍の間で行われた
Wagram の戦い


Wagram は Wien の北東凡そ 17 km に位置する
緩やかな丘陵地帯


この戦いに Austria 軍は負け
Schönbrunn 宮に於いて
10 月 14 日に締結された講和条約によって
8,500 万 Franc という多額の賠償金を課せられた上に
人口の凡そ 6 分の 1 に相当する領土が割譲された事等から
Austria 帝国は
1811 年 2 月 20 日に 国家破産に陥り
その結果同年 3 月 15 日以後の
新たな Wien 通貨としての貨幣価値が 5 分の 1 に引き下げられ
Beethoven にとってのこの時期の経済的困窮の大きな原因の一つとなる


第 1 帝政時代の France の画家
Jacques François Joseph Swebach-Desfontaines (1769–1823)
による銅版画

 

 

 

 

 

 

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