Musik 2017 Nr. 4

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Symphonie Nr. 7 in A-dur, op. 92

 


Teil 14

 

 

 

 

 

 

 


»Symphonie Nr. 7 in A-dur, op. 92 Teil 13«
[Archiv / Musik 2017 Nr. 3]
より続く

 

 London の Robert Birchall (ca. 1750-1819) 及び George Smart (1776-1867) に宛てて、英国摂政の George Augustus Frederick (1762-1830) と共に、Ludwig van Beethoven (1770-1827) から新作の 7 曲の作品を託されて Wien を 1816 年 2 月に去って以来、何箇月待ってもその後何の連絡も送って来ない Charles Neate (1784-1877) に対する、強い不快感を手紙に書いて送った Beethoven であったが、その年の 10 月 29 日になって漸く、Neate は Beethoven に宛てて手紙を送って来た。
Beethoven がその年の 10 月 7 日に George Smart に宛てて書いた手紙を、Smart が Neate にもたらした様で、そこに書かれた Beethoven の苦情に対して Neate が答える内容となっている。

 その手紙の中で Neate は先ず、Beethoven が Smart に宛てて書いた手紙程、彼の今迄の人生の中で心を痛めたものは無く、自分がとてもぐずぐずしていたが為に Beethoven の不機嫌を招いてしまった事は認めるが、それでも自分の振る舞いを Beethoven は余りにも早急に、また余りにも厳しく判断していると訴えている。
彼によると、Neate はその月の 2 日に困難な努力の末に漸く結婚したばかりで、丁度それを Beethoven に伝えようとしていた矢先に、Smart がその手紙の件で Neate の許にやって来た。

 Neate がこの様な不名誉に訴えられたのは今回が全く初めてで、これ迄の彼の人生に於いて釈明を強いられる様な事は一度も無かったが為に、それをどう始めたら良いものかが分からないが、それ以上に彼の心を痛ませるのは、彼自身がどんな他の人達よりも賛美尊敬し、また互いに知り合って以来絶えずその人の事を考え、その人の幸せという事が常に心の中にあった、正にその人物から今回の非難がもたらされたという事にあった。
しかし何れにしてもその人物の目に、Neate の振る舞いがその様に好ましくなく映ったのであれば、状況を細かく説明せざるを得ないという事で、彼の釈明が続く。

 Neate によると、彼が漸く結婚出来た女性の家族は、Neate の職業が音楽家だという事だけでその結婚に強く反対していた。しかし彼のそれ以後の人生の幸福は全てそれに関する振る舞いに係っていると思われたので、その結婚が決定付けられる迄の期間、彼は音楽家としての活動を全く控えていた。そして遂にその結婚が決定される事となり、それ以降は Beethoven に対する彼の気持ちを失うという事も無く、再び音楽家としての活動を再開出来る様になった訳だが、しかしそこに迄至る活動停止の期間中は、公的な活動を引き受ける事は一切出来ず、また Beethoven の為に取り急いでやりたいと思っていた事の為に、誰か他の人達を信頼してそれを任せてしまうという事も不可能で、従ってその期間中は Beethoven から預かった楽譜は引き出しの中に仕舞われたままで、演奏される事も出版されるという事も無かった。

 それでもその間に Neate は Beethoven から預かった曲を、Beethoven が夫々の作品に相応しいとして心地良く受け入れられる様な条件で、Philharmonic Society に提示するという試みは行っている。
しかし 1816 年 3 月 14 日に行われた Philharmonic Society の総会では、Neate の提示した条件に基づくそれ等の作品の受け入れは拒否され、その代わりに作品を良く吟味した後に、同協会が夫々の曲の買取価格を提示するという案が提案された。
その総会に同席していた Neate はその案に対して、Beethoven の名前と名声は Neate にとっては遥かにもっと価値が高いもので、それ等の曲があたかも競りに掛けられる様にして売りに出されるのを恥じずにはおれないとして拒否し、Philharmonic Society によって最終的に作品の受け入れが拒否されるという可能性も残る事から、もしそうなった場合に Beethoven の気持ちが傷付くのを見るよりは、Philharmonic Society には頼らずに、自身で演奏会を企画して開催しようと決心してそこを去る。

 Philharmonic Society がこの時に慎重な態度を示したのには、Neate が同協会に代わって購入して London に持ち帰り演奏された、Ouvertüre zu „Die Ruinen von Athen” (op. 113) と、Ouvertüre Zur Namensfeier in C-dur (op. 115) 、及び Ouvertüre zu „König Stephan” (op. 117) の 3 曲が、その演奏会で芳しい評価を得る事が出来なかったという不運な事情にその理由がある。
Philharmonic Society の創設時の会員の一人であった Neate は、この年は理事会に於ける議決権を持っていなかったが、次の年には理事の一人に就任するだろうから、その時には再度 Beethoven の作品を以て協会に働き掛けようと考える。

 Neate が Wien から帰国する際に Beethoven より託されていた作品の内、2 Sonaten für Violoncello und Klavier, in C-dur, D-dur (op. 102) を、Neate は London の出版社にもたらしているが、演奏が困難で販売が期待出来ないという理由から、Neate としては到底受け入れられない様な額の提示を受ける。
そこで Neate は、この曲が私的な演奏会で専門家によって演奏されれば、自ずとその曲の価値が認められ、ひいては出版社からのもっと良い条件の提示が期待出来るだろうと考える。

 一方 Beethoven は Neate からの返信を首を長くして待っている間に、London で彼の Symphonie が演奏された演奏会が大成功を収めたという記事を新聞で読み、それが Neate の帰国の際に楽譜を託した新作の Symphonie in A-dur (op. 92, Nr. 7) に違いないと思い、自分の承諾を得ないまま勝手に上演したと考えて、Neate に欺かれたという気持ちになっていた。
その強い不満をその年の 10 月 7 日に George Smart に宛てて書いた手紙の中で表していたが、それに対しては Neate は、その時に London に於いて実際に演奏されたという Symphonie は、自分に託された A-dur の方では絶対に無くて、それ以前に既に出版されていた c-moll の Symphonie (op. 67, Nr. 5) だと思うと書いている。

 Neate によると George Smart は厳格に名誉を重んじる人物であり、尚且つ Beethoven の本当の友人なので、Beethoven が Neate に対する不満と抗議を Smart に宛てて書いたのは彼にとって本当に喜ばしく、もし Smart では無くて他の誰かに Beethoven がこれ等の事を書いていたならば、その人物は Beethoven の訴えをそのままに聞き入れて信じ、Neate のその後の人生に於ける評判は全く地に落ちたものになっていたであろうと Neate は考えている。

 

 


Charles Neate
による
手紙の原文は省略
日本語訳は執筆者による

 

 


この先は次回
»Symphonie Nr. 7 in A-dur, op. 92 Teil 15«
[Archiv / Musik 2017 Nr. 5]
へ続く

 

 


上部の写真:


Charles Neate が
Wien の Beethoven に宛てて書いた手紙
第 1 葉

London 1816 年 10 月 29 日付け


Neate 自身の筆跡による副本
Beethoven に実際に送られた浄書は失われている

 

 

 

 

 

 

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