Musik 2018 Nr. 2

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93

 


Teil 3

 

 

 

 

 

 

 


»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 2«
[Archiv / Musik 2018 Nr. 1]
より続く

 

 Ludwig van Beethoven (1770-1827) が 1812 年 4 月に、Symphonie in A-dur の実質的な作曲を終え、それに引き続いて Klavier と Orchester の為の作品の構想を始めたが、その Klavier を用いる事を目的とした作品の作曲はスケッチの段階で中止され、結果的には同じ主題を用いた A-dur に続く、Beethoven にとって 8 作目となる Symphonie in F-dur として実を結ぶ事になる。

 Symphonie in A-dur の総譜には、1812 年 4 月 12 日という日付が書き込まれているので、それが総譜としての記譜の終了した日であろうと考えられている。
次の作品の為のスケッチは、Symphonie in A-dur の総譜が完成するのを待たずに始められた可能性はあるものの、何れにしても次の作品の Klavier 用の曲から Symphonie への転換は、遅くとも同年 5 月 25 日以前に決定されているというのが、以下の事より判断出来る。

 その日付で Leipzig の楽譜出版社 Breitkopf & Härtel へ宛てた手紙の中で Beethoven は、既に同出版社に送付していた Messe in C-dur für 4 Solostimmen, Chor und Orchester (op. 86) の為の校正譜を間も無く送る事を告げ、その出版が遅れているために献呈者を Ferdinand von Kinsky 侯爵 (1781-1812) に変更する事、また Pest [現在の Budapest の一部] の劇場の為に作品を書いた事と並んで、現在 3 曲の新しい Symphonie を書いていて、その内の 1 曲は既に完成していると知らせている。

 この手紙の中で、Beethoven が既に完成していると書いているのが Symphonie in A-dur (Nr. 7, op. 92) で、残る 2 曲の内の 1 曲がその時点でスケッチによる作曲の作業が進行中で、後に Symphonie in F-dur (Nr. 8, op. 93) として完成される事になる作品。残る 1 曲は後に Symphonie in d-moll (Nr. 9, op. 125) となるものだが、この時期に Beethoven が使用していた Petter スケッチ帳には、後にその第 4 楽章の合唱の部分で用いられる事になる Motiv の幾つかの萌芽が見られるものの、この時期には未だその作品の為の実質的な作曲には着手されていない。

 因みに Pest の劇場の為に作品を書いたというのは、Austria 帝国皇帝 Franz I. (1768-1835) によって Pest に新設され、当初は皇帝の聖名祝日の 1811 年 10 月 4 日に予定されていたものの延期されて、翌年 2 月 9 日に行われた杮落しの為に Beethoven が依嘱されて書いた、祝祭劇 „Die Ruinen von Athen” (Athen の廃墟) への付随音楽 (op. 113) と、同じく祝祭劇 „König Stephan” (Stephan 王、I. István) への付随音楽 (op. 117) の 2 作品を指す。

 その杮落しでは August von Kotzebue (1761-1819) による、Beethoven が作曲したものと同じ標題を持つ本来の祝祭劇 „Die Ruinen von Athen” を挟んで、その前と後に Beethoven が音楽を付けた 2 作品が上演された。
皇帝 Franz I. の誕生日の 2 月 12 日に近い日曜日という観点から選ばれた 2 月 9 日に杮落しが行われた事から、この時の催物は劇場の新設と同時に、皇帝の誕生日という 2 重の意味での祝祭性を持つ事になった。
この日の杮落しには沢山の聴衆が押し寄せた為に、翌 10 日と 11 日にも繰り返して同じ公演が行われている。

 Beethoven が上記の Breitkopf & Härtel に宛てた手紙を Wien から書いた直後に、Wien から南南東方向に凡そ 25 km 離れた温泉保養地で、この年の夏の休暇の最初の目的地となった、Baden に Beethoven は移動している。
そこで彼は凡そ 1 箇月の間 Klavier の教師や、音楽的催し物の監督を引き受ける等をして過ごし、6 月末に一旦 Wien へ戻ったもののすぐに今度は、Wien から北西へ向かって Preußen 王国の軍人 Karl Wilhelm von Willisen (1790-1879) と共に、先ずは Praha を目指して更なる休暇に出発する。

 Praha には 7 月 4 日迄滞在し、そこから更に北西の方向に凡そ 75 km の距離を一日で移動して、その翌日には今回の目的地 Teplitz に到着する。
Teplitz は嘗ての Bohemia 王国領で、1804 年以降は Bohemia 王国ごと Austria 帝国領に含まれる事となった、18 世紀から 19 世紀に掛けて休暇の季節になると、Europe の各国から王侯貴族や著名人達の参集した温泉保養地で、Beethoven がそこに滞在するのは前年の夏に続いてこの年が 2 回目であった。

 この夏の休暇で Wien を離れて Bohemia に滞在している間にも、Beethoven の作曲活動は絶え間なく行われており、従って Symphonie in F-dur に関しても、そのスケッチによる作曲の主要作業がこの夏の間続けられていた。

 

 


Beethoven
による
Breitkopf & Härtel へ宛てた手紙の原文は省略
日本語訳及び [ ] 内の補注は執筆者による

 

 


この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 4«
[Archiv / Musik 2018 Nr.3]
へ続く

 

 


上部の写真:


Beethoven が
Wien より Leipzig の
Breitkopf & Härtel 社に宛てた
手紙

1812 年 5 月 25 日付


表面

 

 

 

 

 

 

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