Musik 2018 Nr. 4

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93

 


Teil 5

 

 

 

 

 

 

 


»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 4«
[Archiv / Musik 2018 Nr. 3]
より続く

 

 Ludwig van Beethoven (1770-1827) が 1809 年以来 3 人の貴族達より得ていた年俸に関して、彼が 1812 年の夏の休暇で Teplitz に行く前に相談を持ち掛けられた Franz Oliva (1786-1848) は、その年の 6 月 3 日にその件に関して、その頃 Praha に滞在していた Karl August Varnhagen von Ense (1785-1858) に宛てて、Beethoven による頼み事を仲介する手紙を書いた。
Varnhagen von Ense はそれに対する回答と、Beethoven が Bohemia へ来た折には是非 Praha の自分の許を訪ねて貰いたいという事も含めて、その月の 9 日に早速返事を送っている。

 Varnhagen von Ense はその凡そ 1 箇月後の 7 月 5 日に、Weimar の Johann Wolfgang von Goethe (1749-1832) に宛てて、Beethoven の Goethe に対する敬意の念を伝え、「彼が不幸な難聴に対して新たに、Töplitz [Teplitz] の温泉の治癒力を試してみようとしている」 という事を伝えている。
Beethoven は 6 月 29 日に Wien を出発して、7 月 1 日から 4 日迄の間 Praha に滞在し、Varnhagen von Ense が Goethe に手紙を書いた同月 5 日に Teplitz に到着している。

 Beethoven はその後同月 14 日に、Teplitz から Praha の Varnhagen von Ense に手紙を書いて、「Goethe の wilhem Meister’s lehrjahre [Wilhelm Meisters Lehrjahre、Wilhelm Meister の修業時代] の 3 部を、ここ迄郵便馬車で送ってくれる様」 頼んでいる。

 これに先だって、Beethoven が Teplitz に到着した翌日と翌々日に当たる 7 月 6 日と 7 日に、彼は匿名の女性に宛てて手紙を書いている。
この手紙は Beethoven が 1827 年 3 月 26 日に亡くなった後、その住居の引き出しから初めて発見されたために、彼ははその手紙を書き終わったものの発送する事はしなかったのだとそれ以来考えられて来た。

 この手紙はその後、1814 年に殆ど偶然の機会によって、Beethoven と初めてのごく短い接触があった後 [但し事実であったという確証は無い]、1822 年の秋より 1825 年の夏に Beethoven からその関係を断絶される迄、無報酬で彼の小間使い役をしており、Beethoven の最後の年となる 1827 年初頭に和解して彼の最後の世話をしていた、Anton Felix Schindler (1795-1864) によって受け継がれた。

 その後 1840 年に、Münster の Aschendorff 社より Schindler の書いた „Biographie von Ludwig van Beethoven. Mit dem Portrait Beethovens und 2 Facsimiles” (Portrait と 2 つの Facsimile 付き Beethoven の伝記) が出版された際に、初めてこの手紙が公開された。
しかし Schindler はその伝記の中で、Beethoven がこの手紙に書いた重要な言い回しや文章を幾つも省略し、またその他のものについても少なからず勝手に変更してその伝記に載せている。
Schindler が 1864 年に亡くなった後この手紙はその妹が相続し、その後 1880 年以降は、Berlin の王立図書館 (現在の Berlin 州立図書館) が所蔵するところとなっている。

 この全体が 3 部から成り鉛筆によって書かれた手紙には、それが書かれた年と場所の記載が無い為に、宛名の推定が非常に困難であり、それが公開されて以来現在に至る迄、数多くの推測が行われて来た。
この手紙が書かれた年に関しては、この手紙の第 2 部の冒頭に 「7 月 6 日 月曜日の夜」 と記載されているところから、それに該当するのは 1795 年、1801 年、1807 年、1812 年と 1818 年の何れかの年に絞られる。

 また手紙の文中に記載されている文章から、Beethoven が湯治中である事、郵便馬車によってその手紙を „K.” へ宛てて送ろうとしている事、また前日の朝 4 時に手紙を書いた場所に到着したが、郵便馬車での森を抜けての田舎道の行程がひどいものであった事、そしてそこには Esterhazi [Esterházy de Galantha 侯爵] も他の普通の道を通って 8 頭立ての馬車でやって来たが、その行程も矢張り同様であった事等から、Beethoven がその時に滞在していたのは Bohemia の温泉保養地 Teplitz で、その手紙の送り先は Karlsbad では綯いかと推測されて来た。

 その後 1909 年になって、1812 年の Beethoven の Bohemia 滞在及びその年の他の行動に関する記録が発見され、その年の 7 月 5 日に Beethoven が実際に Teplitz に到着しているという、当地の警察による記録が発表された。
また同じ時期に Esterházy de Galantha 侯爵も Tepliyz にやって来ており、更に同時期に Karlsbad に滞在していた Johann Wolfgang von Goethe の日記に、その時期は殆どの日が雨続きであったと書かれている事も発見されて、この手紙が書かれた年が 1812 年であったというのはほぼ間違い無いであろうと考えられた。

 それ等の発見から更に半世紀以上の時が経った 1966 年になって、手紙に使用された用紙の漉き入れ模様の研究結果が発表され、この手紙に使用された用紙は、Beethoven が 1812 年の夏にその他の幾つかの手紙に使用したものと同じ種類の紙で、その前にも後にも Beethoven がその紙を使用した事は決して無かったという事実が判明し、これによってこの手紙の書かれた年が 1812 年であったという事が最終的に確定された。

 

 


Ludwig van Beethoven
及び
Karl August Varnhagen von Ense
による手紙の原文は省略
日本語訳及び [ ] 内の補注は執筆者による

 

 


この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 6«
[Archiv / Musik 2018 Nr. 5]
へ続く

 

 


上部の写真:


Ludwig van Beethoven が
1812 年の夏に
休暇で訪れていた
Teplitz に於いて
匿名の女性に宛てて書いた手紙

7 月 6 日の朝に書いた
この手紙の最初の頁

 

 

 

 

 

 

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