Musik 2018 Nr. 6

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93

 


Teil 7

 

 

 

 

 

 

 


»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 6«
[Archiv / Musik 2018 Nr. 5]
より続く

 

 1812 年の夏の休暇の季節に入る前に Ludwig van Beethoven (1770-1827) は、1809 年に契約が締結された以来 Ferdinand von Kinsky 侯爵 (1781-1812) から受けていた年俸の支払いに関して頼み事をする為に、当時 Beethoven の秘書もしていた Franz Oliva (1786-1848) を通して、帝室王室軍の将官であった Bentheim-Steinfurth 伯爵 Friedrich Wilhelm Belgicus (1782-1839) の副官として、その頃 Praha に滞在していた Karl August Varnhagen von Ense (1785-1858) に宛てて 6 月 3 日に手紙を送る。

 Beethoven はその年の 6月末にそれ迄滞在していた、Wien の南方凡そ 26 km に位置する温泉地の Baden から一旦 Wien に戻るとすぐに、Bohemia 王国の Praha を経由して、耳疾の為の湯治を兼ねたその年の夏の休暇の目的地の Teplitz へ向かう予定であったが、それを知った Karl August Varnhagen von Ense は、早速 6 月 9 日に送った返信の中で Beethoven が Praha に到着したら直ちに自分の許を訪ねて貰いたいと書き送っている。

 Beethoven は 6 月 29 日の早朝に Wien を出発し、7 月 1 日に Praha に到着した。その後 Praha には 7 月 4 日迄滞在し、同日 Teplitz へ向けて出発し、翌日の早朝 4 時に Teplitz に到着している。
Teplitz に到着した翌日の朝とその晩、及び翌々日の朝の 3 回に分けて、現在に於いてもその宛名が確実には解明されていない、所謂通称 「不滅の恋人への手紙」 と呼ばれている手紙を書いている。

 Beethoven は今回の休暇旅行の際、Praha に到着した後の 7 月 3 日に同地に於いて Karl August Varnhagen von Ense と会う約束をしていた様だが、これは実現しなかった。
その理由に関しては、Beethoven が 7 月 14 日に Teplitz から Praha の Varnhagen von Ense に宛てた手紙の中で触れられている。

 その手紙の中で Beethoven は、Johann Wolfgang von Goethe (1749-1832) の „Wilhelm Meisters Lehrjahre” (Wilhelm Meister の修業時代) の欠けていた第 4 部が見つかったので、第 3 部迄を郵便馬車で自分の許に送ってくれる様に頼み乍ら、先日の Praha での晩の件に関しては、自分自身でも失礼な事であったとは思うが、全ては事前に予測する事が出来なかった事態のために約束を守る事が出来なかったので、どうか自分の事を悪く思わないで頂きたいと書いており、それに関してより詳しくは直接会って口頭で説明したいと Varnhagen von Ense に伝えている。

 Ferdinand von Kinsky 侯爵から Beethoven が受けていた年金の支払いに関する件でも、直ちに動いて助けて貰った Varnhagen von Ense との約束を Beethoven に急に反故にさせた、「事前に予測する事が出来なかった事態」 に関しての、これ以上の具体的な記録はこの手紙以外にも見出されていないが、それ程の 「事態」 であったという事と、同じ手紙の中で Beethoven は、Teplitz に於いて自分は 「孤独」 だという事を強調して Varnhagen von Ense に伝えているが、これは事実と相容れる訳では無いという点も注意を引く。

 これ等の事柄から Beethoven は、問題とされている 7 月 3 日に Praha に於いて全く予期せず、その 3 日後と 4 日後に Teplitz から手紙を書く事になるその宛名の恋人に会ったのであろうと推測されている。
この手紙には直接書かれていないがその後の研究により、この手紙の宛先が Karlsbad (Karlovy Vary) から郵便馬車で更に 1日の距離にある Eger (Cheb) か、或いは Franzensbad (Františkovy Lázně) である事が推定されているが、その恋人も Wien を出発してそこへ向かう途上 Praha に立ち寄るのは、Wien から Teplitz を目指した Beethoven と同様に、当時のごく一般的な行程であった。
その恋人と Beethoven の予期せぬ邂逅が、彼女と別れて Teplitz に到着した Beethoven にすぐに情熱的な恋文を書かせ、またその少し後に Varnhagen von Ense に宛てた手紙の中での、外面的な事実には反するとても孤独で寂しいという表現に繋がったいう事は、とても自然に考える事が出来る。

 この 「恋人」 というのが一体誰であったのかを推定する議論は、現在に於いても未だ決着されるところには至っていないが、この手紙が公開されて以来現代に至る迄の間に新たに発見された種々の記録より、その候補として挙げられて来た数多くの Beethoven との間に交友関係があった女性の内、その可能性を現在でも保持し続けているのは以下の 2 人に絞られている。


Antonie Brentano (1780-1869)


Josephine Brunsvik de Korompa 伯爵夫人 (1779-1821)

 

 

 


Ludwig van Beethoven
及び
Karl August Varnhagen von Ense
による手紙の原文は省略
日本語訳は執筆者による

 

 


この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 8«
[Archiv / Musik 2018 Nr. 7]
へ続く

 

 


上部の写真:


„Zum schwarzen Ross”


Beethoven が 7 月 1 日から 4 日迄
Praha に於いて滞在した宿


Praha の中心地の Na příkopě に面した
大変評判の良い宿で
1829 年には
Praha を訪れた Frédéric Chopin (1810-1849) も
ここに滞在している

 

 

 

 

 

 

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