Musik 2018 Nr. 8

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93

 


Teil 9

 

 

 

 

 

 

 


»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 8«
[Archiv / Musik 2018 Nr. 7]
より続く

 

 Ludwig van Beethoven (1770-1827) が 1812 年の夏の休暇の滞在先であった Teplitz (Teplice) から 7 月 6 日と 7 日に分けて恋人に宛てた手紙を書いているが、その後に同地から Karl August Varnhagen von Ense (1785-1858) に宛てて書いた手紙の内容から、恐らくそれに先立つ 7 月 3 日の夜に、Teplitz に向かう経由地として立ち寄った Praha に於いて、その恋人に予期せぬ状況の下に出会ったと考えられている。

 Beethoven がこの時 Praha に滞在していた事は、7 月 3 日付の Praha で発行されている独語による新聞 „Prager Oberpostamts-Zeitung” が、当地への外来の人物に関する記事の中で、「 Wien の作曲家 v. Beethoven 氏が schwarzen Roß [黒い馬] に滞在している」 と伝えている事から分かる。
この記事中の „schwarzen Roß” とは、現在の Praha の旧市街地となっている区域の中心地の、Na příkopě にあった Hotel „Zum schwarzen Roß“ の事で、上流社会の人々に人気のあった Praha で大変評判の高い Hotel であった。

 この時の Beethoven の恋人に関して問題となる時期の丁度 7 月 3 日に、Antonie Brentano (1780-1869) もその夫の Franz Dominicus Brentano (1765-1844) と共に Praha に到着したという事が分かっており、彼等の滞在先は同じく旧市街地の中心地に位置する Hotel „Rotes Haus“ [赤い家] であった。
同じ Hotel には Beethoven の今回の旅の同伴者で、元々 7 月 3 日に Beethoven と Praha に於いて会う事を約束をしていた Karl August Varnhagen von Ense の友人の、Karl Wilhelm von Willisen (1790-1879) が滞在していた。

 この事から Beethoven は Karl Wilhelm von Willisen を通して、同じ時に Antonie Brentano も Praha に滞在していた事を知り、もし彼女が Beethoven がその 3 日後と 4 日後に手紙を書いた恋人であったとすれば、彼が後に釈明している様に Karl August Varnhagen von Ense との事前の約束を断って、この予想外の恋人との邂逅を優先させたという可能性を考える事は不自然では無い。

 Beethoven がその後 Teplitzに於いて恋人に宛てて書いた手紙は 3 部分に分けて書かれているが、7 月 6 日の朝に書かれたその最初の部分に於いて、Beethoven が „Esterhazi” について触れている箇所がある。
この時に Beethoven が書いている „Esterhazi” とは、Sachsen 王国の首都 Dresden の宮廷に於いて、Austria 帝国の公使を務めていた Esterházy de Galantha 侯爵 Paul III. Anton (1786-1866) の事を指している。
彼はこの同じ時期に Teplitz を目指した旅の経由地として Praha に滞在しており、Beethoven とはこの時に Praha に於いて既に会っている可能性が有るが、後に Teplitz に於いて両者が再度会ったという事は、Beethoven の 7 月 6 日に恋人に宛てて書いた手紙の内容から分かる。

 しかしこの Paul III. Anton が属する Esterházy 家とは、13 世紀以来現在に至る迄存続するHungary 王国の最も有力な貴族の家系で、長い歴史の過程に於いて幾つもの分家が存在し、Beethoven が手紙で書いている様に „Esterhazi” という名前だけでは、その一族の中の誰の事を指しているのかを推測する手掛かりが無い。従って Beethoven が Teplitz から手紙を書いた時点で、既にその恋人はこの „Esterhazi” が誰を指しているのかを既に知っていたという事を当然推定する事が出来る。

 この時に Paul III. Anton が Praha に於いて滞在していたのは、Moldau (Vltava) 河を挟んで現在旧市街地となっている地区とは反対側に位置し、世界最大の城郭を成す Praha 城がある、Malá Strana 地区の高級 Hotel „Erzherzog Karl” [Karl 大公] であった。

 若し Beethoven がこの数日後に Teplitz から手紙を書いた恋人が Antonie Brentano であったとしたら、予期せず同じ時に Praha に居合わせていた事を知った Beethoven と彼女が、恐らく Antonie の提案によって、その時の再会の場として選ばれたこの Hotel „Erzherzog Karl“ に於いて、両者は音楽を愛好していた Esterházy de Galantha 侯爵 Paul III. Anton にも会っており、夫々のその後の旅程等について話していたのではないかという推測をする事は可能だと考えられる。

 Antonie Brentano はその翌日の 7 月 4 日に、夫の Franz Dominicus Brentano 及びその時点での両人の間の末子であった Franziska Elisabeth Brentano, 通称 Fanny (1806-1837) とその子守と共に Praha を出立し、翌 5 日に温泉保養地として広く知られる Karlsbad (Karlovy Vary ) に到着している。

 Karlsbad に於けるこの家族の滞在先は „Zum Auge Gottes” [神の目] という宿で、一行はそこに凡そ 5 週間滞在する予定であったが、この時の „Zum Auge Gottes” は現在の Karlsbad に於いて 5 つ星 Hotel として営業を続けている Grandhotel Pupp 内の „Café Pupp” となっている。
Brentano の一行が Karlsbad に到着した翌日の同月 6 日と 7 日に、Beethoven が Teplitz から恋人に宛てた手紙の中で „K” と書いているのが、この Karlsbad を意味しているという事が現在では判明している。

 

 


この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 10«
[Archiv / Musik 2019 Nr. 1]
へ続く

 

 


上部の写真:


„Café Pupp”

Johann Georg Pupp (1743-1810) によって
Karlsbad に於いて創業された
„Zum Auge Gottes” という宿は
現在 Grandhotel Pupp 内の „Café Pupp” となっている

 

 

 

 

 

 

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