Musik 2019 Nr. 1

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93

 


Teil 10

 

 

 

 

 

 

 


»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 9«
[Archiv / Musik 2018 Nr. 8]
より続く

 

 Ludwig van Beethoven (1770-1827) が 1812 年の夏の休暇の滞在地であった Bohemia 王国の Teplitz (Teplice) から、同年 7 月 6 日とその翌日に掛けての 3 回に分けて書いた恋文の相手を探る長年の研究の結果、Antonie Brentano (1780-1869) と共に最後迄残ったその候補者の一人である Josephine Brunsvik de Korompa 伯爵夫人 (1779-1821) は、Anton II. Brunsvik de Korompa 伯爵 (1745–1792)と、Wien の宮廷に於いて Austria 大公女 Maria Theresia (1717-1780) の女官を務めていた、Elisabeth Wankel von Seeberg 男爵令嬢 (1752-1830) との間の第 3 子次女として 1779 年 3 月 28 日に、現在は Slovakia 共和国の主都となっている Bratislava (Preßburg) に於いて生まれる。

 Brunsvik 家に関する最も古い記録は、13 世紀末に神聖 Roma 帝国領 Pommern 公国に属する Colberg の市参事会員であったというものが残されているが、その後 17 世紀になって Hungary 王国領の Galgóc (現在は Slovakia 共和国西部に位置する Hlohovec) に移り、1710 年頃 Margarethe Theresia Vitalis von Vitalisfalva (ca. 1685–1747) と結婚した Michael II. Brunsvik (1671–1719) が、結婚の持参金として Alsókorompa (下部 Korompa, Dolná Krupá, 独名 Unterkrupa) の支配権を得る。
その後 1775 年になって、Michael II. Brunsvik の子で Josephine の祖父に当たる Anton I. Brunsvik (ca. 1717–1780) が、Wien の Hungary 王国宮廷官房に長年仕えた功績によって、Austria 大公女 Maria Theresia によって伯爵位に叙され、それ以来 „de Korompa” という称号を用いる様になる。
またこの時同時に Martonvásár (現在の Budapest の南西近郊) を封土として与えられる。

 Josephine とその家族は主に Martonvásár の居城と Buda (Donau 河の西岸で、後の 1873 年に Budapest となるその一部) の Schloßberg にある宮殿をその主な住まいとしていた。
Josephine の父親の Anton II. は 1793 年に 47 歳の若さでで亡くなり、その後は Josephine の母親の Elisabeth が Brunsvik 家の采配を取る事になる。
その後 1799 年に Elisabeth は、その年の 3 月に 20 歳になった Josephine と、未だ結婚していなかったその姉で 4 歳年長の Therese (1775-1861) の 2 人の娘達の将来の為に、同じ身分の裕福な貴族との結婚を目論んで、同年 5 月 3 日に 2 人を Wien に連れて行く。その 2 日後の 5 月 5 日にその娘達と会った、既に 47 歳という年齢に達していた Joseph Deym von Střítež 伯爵 (1752-1804) は、同年 7 月 29 日に Martonvásár に於いて Josephine と結婚する事となった。

 この年の Elisabeth とその娘達の Wien に於ける夏の滞在中に、彼等は Ludwig van Beethoven (1770-1827) と知り合う事となり、Klavier の教授を余り好んでいなかった Beethoven ではあったが、それ以来毎日の様に彼等を訪ねて、Josephine と Therese に Klavier の教授を長い時間に亘って無報酬で行った。
Josephine の結婚後 も Beethoven の Josephine に対する Klavier の教授は無報酬で続けられて両者の関係は継続されたがそればかりでは無く、音楽の愛好家でもあった Deym von Střítež 伯爵 の Wien の Rotenturmstraße にあった邸宅に於いて開かれた演奏会に、Beethoven は自作品の演奏を以て度々出演し、また彼が Sonate für Klavier und Violine in A-dur (op. 47, „Kreutzer-Sonate”) をその為に書いた高名な Violine 奏者の George Bridgetower (1778-1860) や、Horn の名手 Jan Václav Stich (1746-1803) 等の当時広く知られていた演奏家達をその演奏会に参加させて共演するという事を行っている。
また伯爵によって創設された私設博物館の自動演奏楽器の為の作品の作曲もしている。

 Josephine と Joseph Deym von Střítež 伯爵との間には、結婚の翌年から 3 年間の間に 3 人の子供達が生まれているが、Josephine が未だ 4 人目の子供の妊娠中であった 1804 年 1 月 27 日に、Joseph は滞在先の Praha に於いて肺炎が原因で急死してしまう。
Joseph の没後間も無く、最後となる神聖 Roma 帝国皇帝 Franz II. (1768-1835) は、Josephine とその遺児達を Wien の宮廷に招いて彼等を慰めるという事をしている。

 Joseph が亡くなり、Joseph との間の最後の子が生まれたその年の夏、Josephine は 7 歳年下の妹、Karoline Brunswik von Korompa (1782-1843) と共に Wien 郊外の Hietzing に於いて休暇の時期を過ごそうとしたが、Josephine が腸チフスに感染した為に Wien に戻らざるを得なくなる。
その年の冬の季節になって Josephine の健康が恢復して来ると、Beethoven は Klavier の教授の為に Josephine を再び訪れる様になり、その頻度は徐々に増して行って、その年の 11 月の末頃には 1 日おきに Josephine の下に通う様になり、2 人の間の関係は益々緊密なものとなって行った。

 

 


この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 11«
[Archiv / Musik 2019 Nr. 2]
へ続く

 

 


上部の写真:


Martonvásár の
Brunsvik 家の居城

 

 

 

 

 

 

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