Musik 2019 Nr. 2
Ludwig van Beethoven
Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93
Teil 11
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 10«
[Archiv / Musik 2019 Nr. 1]
より続く
1804 年 1 月に未亡人となった Josephine Brunsvik de Korompa 伯爵夫人 (1779-1821) がその年の夏に腸チフスに感染した後、同年の秋になって恢復して来ると、Ludwig van Beethoven (1770-1827) との間の関係は再び緊密さを増し、同年 11 月末頃には Beethoven が Klavier の教授の為に、1 日置きには Josephine の下を訪れる様になっている。
この年から 1809 年、或いは 1810 / 1811 年迄に掛けての期間に、Beethoven が Josephine に宛てて書いた情熱的な恋文が 20 世紀になって発見され、その内の 13 通が 1957 年に公開されている。更に Josephine によって部分的に書き写された手紙の断片が後にそれに加えられ、少なくとも合計で 14 通の Josephine 宛ての手紙が Beethoven によって書かれた事が分かっているが、その手紙のどれもが後の 1812 年 7 月 6 日とその翌日に、その年の夏の休暇の滞在先であった Bohemia 王国の Teplitz (Teplice) から、匿名の恋人に宛てて書かれた手紙で用いられた言葉と同一か、或いはそれと非常によく似た表現を用いて書かれている。
この Beethoven が Josephine に対して示している強い愛情が一方的なものでは無かった事が、断片的に残されている Josephine から Beethoven に対して書かれた手紙の内容から明らかになっている。
1805 年の 2 月から 3 月に掛けての期間に Beethoven は、Christoph August Tiedge (1752-1841) の „Urania. Ein lyrisch-didaktisches Gedicht” (Urania 抒情的教訓的詩) に基づく Lied „An die Hoffnung” (希望に寄せて, op. 32) を作曲しているが、この曲が自分の為に書かれ作品で、Beethoven より贈られたという事を Josephine は、1805 年 3 月 24 日付の手紙で彼女の母親に伝えている。
また元々は Sonate für Klavier in C-dur („Waldstein”, op. 53) の第 2 楽章として構想されたが、Sonate があまりにも長大になるという理由で Beethoven はその楽章を Sonate から独立させて、Josephine の為に Andante für Klavier in F-dur („Andante favori”, WoO 57) として完成させた。
1805 年の 4 月から 5 月頃に書かれたと推定されている Josephine への手紙の中で Beethoven は、„hier ihr – ihr – Andante” (これがあなたの Andante です) と書いて、その手稿譜を Josephine に贈っている。
この作品の冒頭の 4 音からなる Motiv は „Jo-se-phi-ne” の韻律と一致しているが、更には Beethoven が同時期に作曲した Oper „Leonore” („Fidelio”, op. 72) に於ける英雄的な女性主役名の „Le-o-no-re” の韻律がこれと一致する事も指摘されている。
Beethoven と Josephine の間の双方からの愛情関係はしかし、元来より 2 人の身分の違いに起因する困難を抱えていた。
貴族の身分であるという事の意識を明確に持っていた Brunsvik de Korompa 伯爵家の家族にとっては、この両者の関係は当初より歓迎されざるものとして注視されており、既に 1804 年 12 月 19 日の時点で Josephine の妹の Karoline Brunswik de Korompa (1782-1843) は、姉の Therese Brunsvik de Korompa (1775-1861) に宛てた手紙の中で、「Beethoven は頻繁にここに来て Pepi [Josephine] に教えていますが、これはいささか危険だと言わざるを得ません」 と伝えている。
翌 1805 年 1 月 20 日に Therese は Karoline に宛てた手紙の中で、「Beethoven と Pepi がこの先どうなると言うのでしょうか? 彼女は用心するべきです! [・・・] 彼女の心は nein と言う勇気を持たなければなりません。あらゆる事の中で最も悲しいという訳では無いにしても、それは悲しい義務です!」 と書いている。
Karoline 自身は恐らく 1805 年の晩夏か秋頃に 3 歳年長の姉の Josephine に対して、Beethoven と二人きりになる事の無いようにと忠告している。
また更に同年 10 月 20 日に彼女が Josephine に宛てた手紙では、「今この機会に緊急にあなたにお願いしたいのは、Beethoven に気を付けて貰いたいという事です。決して一人で彼に合わない事、それよりもあなたの自宅では決して彼に会わないという事を、あなたの決まり事にしてください」 と頼んでいる。
一方 Josephine としても、結婚した女性はその配偶者の身分を踏襲するという当時の法制上の規則から、若し Josephine が Beethoven と結婚すれば、彼女はそれによって貴族の身分を諦めなければならず、ひいては彼女の子供達に対する親権を失わざるを得ないという事から、Beethoven との結婚は現実的には不可能だという事を十分承知していた為に、Beethoven からの情熱的な催促に対してはある一定の限度を意識して設けており、1806 年から翌年に掛けての冬の季節に書かれた手紙で、彼女はその意思を間接的にではあるが殆ど絶望的な調子で Beethoven に伝えている。
1807 年の秋になって Josephine は遂に彼女の家族達からの圧力に屈して、Beethoven との関係から身を引く決心をする。それ以降 Beethoven が Josephine の下を訪れようとしても、彼女は居留守を使って彼から身を隠す様になり、これ以降の特に Beethoven の心を深く傷つけ、精神的に大きな打撃となる経験へと繋がっていく事になる。
Karoline Brunswik de Korompa
及び
Therese Brunsvik de Korompa
による手紙の原文は省略
日本語訳及び [ ] 内の補注は執筆者による
この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 12«
[Archiv / Musik 2019 Nr. 3]
へ続く
上部の写真:
Beethoven が Josephine に
Andante für Klavier in F-dur („Andante favori”, WoO 57)
を贈った時の手紙
1805 年