Musik 2019 Nr. 3
Ludwig van Beethoven
Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93
Teil 12
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 11«
[Archiv / Musik 2019 Nr. 2]
より続く
1804 年 1 月以来未亡人となっていた Josephine Brunsvik de Korompa 伯爵夫人 (1779-1821) は、Beethoven との親密な関係に終止符を打とうという家族達からの強い圧力に屈して、1807 年の秋に遂に Beethoven との関係から身を引く決心をする。
その翌年に Josephine は姉の Therese Brunsvik de Korompa (1775-1861) を伴い、第 2 子長男の Friedrich (1801-1853) と、第 3 子次男の Carl (1802-1840) と共に長期の旅行に出掛ける。彼等はその折に滞在した Suisse 連邦 Waadt 州の Yverdon-les-Bains に於いて、同国の教育家 Johann Heinrich Pestalozzi (1746-1827) 及び、その下で教えを受けており、後には故国の Estonia に於いてその教えを受け継いだ教育者となる、Christoph Adam von Stackelberg 男爵 (1777-1841) と知り合う。
その後 Stackelberg 男爵は Josephine の一行 4 人が Hungary 王国の所領へ戻る旅の供をする事を申し出て、彼等は共に帰国の途に就く事となった。
同年 12 月から翌年 1 月に掛けて Josephine が Genève で病に伏せた為に暫く当地に滞在するという事があったが、一行が Hungary への帰国に向かう旅の間、Josephine は Stackelberg による彼女への親近の試みを拒否する事無く従順に従っていた様で、彼等は 1809 年の夏に Hungary に帰国したが、その時点で Josephine は既に身重の状態となっていた。
Stackelberg 男爵が身分の低い外国の貴族で、尚且つ信仰がプロテスタントである事から Beethoven の時と同様に、身分意識の高い Brunsvik 家からはその家族への受け入れを拒否されていた。
その為に 1809 年 12 月に Pest の Vác に於いて、Josephine の娘として生まれた Maria Laura (1809-1843) は婚外子として出生を迎えている。
Josephine と Joseph Deym von Střítež 伯爵 (1752-1804) との間に生まれていた計 4 人の子供達の養育を停止するという、Stackelberg 男爵の強迫を幾度となく受けた Josephine の母親の Elisabeth Brunsvik de Korompa 伯爵夫人 (1752-1830) は、不本意乍らも渋々 2 人の結婚を書面によって公式に認め、その結果 Stackelberg 男爵との Josephine の再婚が決定された。
結婚式は 1810 年 2 月 13 日に、1241 年に至る迄 Hungary 王国の嘗ての首都であった Esztergom に於いて行われた。
その結婚式から丁度 9 箇月後の同年 11 月に、2 人の間の第 2 子 Theophile (1810-1828) が生まれているが、その後 Josephine は再度病床に伏せる事となり、この再婚は当初より幸福なものでは無かった事が明らかになって来る。
その原因の 1 つが子供達の教育に対する両者の見解の相違で、Stackelberg の権威主義的な様相が次第に露呈する結果となった。
これに加えて最終的に今回の結婚の破局と経済的零落に至る大きな原因となったのは、1810 年 5 月 22 日に取り交わされた Bohemia 王国領の Moravia 地方に於ける、Witschapp と Lessonitz の領地の購入契約であった。
この森に覆われてしっかりと整えられた広大な領地には 11 の村落と市場もあり、その中には厩舎が整えられた 14 の酪農施設、200 頭の外国種の牛、20,000 頭の上質な Spain 系 Merino 種の羊等も含まれており、領地として整えられたとても好条件のものであり、こういう領地を入手出来るという事は、その後にそこから期待出来る収益の点でも大変幸運な事であった。
同年 7 月 1 日に Josephine の家族がその領地へ移る際には、病身であった Josephine の為に 10,000 Florin もの費用が掛かったが、美しい装身具で飾られた Poland 産の若く威勢の良い葦毛の馬に引かれた、4 頭立ての寝台馬車が用視されるという風に大変豪華な移動であった。
この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 13«
[Archiv / Musik 2019 Nr. 4]
へ続く
上部の写真:
Donau 河に面する
Esztergom (独名 Gran)
Budapest から北西に凡そ 35 km の距離に位置し
Donau を挟んだ対岸は
現在の Slovakia 共和国の町 Štúrovo
1840 年頃制作の銅版画