Musik 2019 Nr. 4
Ludwig van Beethoven
Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93
Teil 13
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 12«
[Archiv / Musik 2019 Nr. 3]
より続く
1810 年 11 月 30 日に Josephine Brunsvik de Korompa 伯爵夫人 (1779-1821) と、その再婚相手の Christoph Adam von Stackelberg 男爵 (1777-1841) との間に、第 2 子の Theophile が生まれている。
その後再び Josephine は病床に伏せる事となったが、Stackelberg 男爵との間の子供の教育に関する妥協の余地の無い程の見解の相違を始めとして、両者間の関係は決して良好なものでは無く、そのために Josephine は自身の寝室をStackelberg とは別室にしたばかりでは無く、その間の部屋で女中が寝る事を彼女は望んだという事を、翌年 3 月に姉の Therese Brunsvik de Korompa (1775-1861) に宛てた手紙で知らせている。
それに加えて更に両者の関係を悪化させたのは、1810 年に締結した Bohemia 王国 Moravia 地方に於ける Witschapp と Lessonitz の広大な領地の購入契約であった。
大変恵まれた条件を備えた領地ではあったが、その総計 2.000.000 Gulden に及ぶ購入費用を支払う事が、この夫妻には最早叶わない状況となっていた。
その最も大きな理由は、Austria 帝国が 1809 年の第 5 次対仏大同盟戦争に於いて France 帝国軍に敗戦した為に、それに伴って締結された Schönbrunn の和平条約に因って 85,000,000 Franc の賠償金を課されたが、それが直接の原因となって 1811 年 2 月 20 日に国家破産を宣言した事にある。
その結果それ以前に発行された Austria Gulden はその価値をそれ以前の 1/5 に引き下げられる事となり、Gulden で持たれていた資産はそれに応じてその価値を大幅に失う結果となった。
また更に Stackelberg の借入金に起因する 300.000 Gulden 以上に及ぶ損失も加わり、購入契約を締結した土地の所有者との間の度重なる裁判に於いて、最終的に Stackelberg 夫妻は敗訴してしまい、その為に Josephine は自身の財産の大部分を使い果たしてしまう結果となった。
これ等の一連の事柄が原因となって、Josephine と Christoph Adam von Stackelberg の夫妻の間の争いは、絶える事が無い様な状態になっている。
1812 年 4 月に当時未だ満 12 歳になっていなかった、Josephine と前夫 Joseph Deym von Střítež 伯爵 (1752-1804) との間の最初の子供で長女の Victoire (1800-1823) は、不本意にも耳にする事となった Stackelberg の Josephine に対する怒りと激しい侮辱の様子をその日記に記している。
その日記で Victoire は、Josephine が死別した Joseph Deym von Střítež 伯爵との間の自分達 4 人の子供への愛情の為に、若し彼女が死ぬ様な事があった際にはその配偶者が子供達の支えになってくれる様にと考えて、Stackelberg との結婚に踏み切ったが、それが母親にとっての全ての不幸の原因になっているという事を十分認識して書いている。
Josephine はその後も相変わらず経済的に大変困難な状況にあったが、Stackelberg は Josephine と子供達を残して、恐らく 1812 年の 6 月に家族の下を去っている。
その月に書かれた Josephine の日記には、苦境の時にあるからという Josephine の願いにも拘らず、Stackelberg は無情にも自分を一人残すつもりでいるという事が記されており、同時にそこでは 「 Praha の Liebert と話してみるつもり 」 だという事が書かれている。
現在に於いてもこの Liebert という人物が実際に誰の事を指しているのかは明らかになっていないが、Josephine が Bohemia 王国の Praha に於いて、有力な人物による後ろ楯を探そうとしていたという点が注意を引く。
その際に Josephine が求めようとしていたのは、上記の日記の中でまた 「 決して子供達を手放すつもりは無い 」 とも書いている所から、将来に十分考える事の出来る Stackelberg との離婚の際の、子供の親権に関する法律上の援護か、或いは Witschapp と Lessonitz の領地購入に関する法廷闘争で失われてしまった、Josephine の法外な額の財産の返戻の為の助力ではなかったかと推測する事が出来る。
また Josephine は前夫の Joseph Deym von Střítež 伯爵が 1804 年に亡くなった際に、皇帝 Franz II. (1768-1835) よりその遺児達と共に、Wien の宮廷に招かれて直接慰められるという事があったが、Franz II. は丁度この時期に Dresden に於いて開催された帝国諸侯会議に出席しており、その帰途 1812 年 6 月末に Praha に立ち寄って滞在する予定となっていた。それを知った Josephine が助力を求める為にもう一度皇帝への謁見を願い出ようとして、Praha への旅を計画したのではないかという可能性は十分に考える事が出来る。
この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 14«
[Archiv / Musik 2019 Nr. 5]
へ続く
上部の写真:
1812 年 6 月に Joseph II. が滞在した
Praha の王宮