Musik 2019 Nr. 6

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93

 


Teil 15

 

 

 

 

 

 

 


»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 14«
[Archiv / Musik 2019 Nr. 5]
より続く

 

 Josephine Brunsvik de Korompa 伯爵夫人 (1779-1821) が 1812 年 6 月の日記に記していた様に、翌 7 月に実際に Wien から Praha に行き、そこで同月 3 日の夜全く偶然に Ludwig van Beethoven (1770-1827) に邂逅し、その後 Beethoven は同月 5 日にその年の夏の休暇の目的地であった Bohemia 王国の北西端に近い Teplitz (Teplice) に到着して、早速その翌日と翌々日に情熱的な恋文を書いているが、その恋人に対して Beethoven が „Unsterbliche Geliebte” (不滅の、永遠の恋人) と呼び掛けているその相手が、この Josephine ではないのかという事が推測されている。
これについては現在に於いてもこれ等を確実に確かめる事の出来る資料が発見されておらず、この議論は未だ結着が付けられる迄には至っていない。

 その後翌年の 4 月 8 日に Josephine の最初の配偶者であった Joseph Deym von Střítež 伯爵 (1752-1804) との間の子供から数えて、彼女にとって 7 人目の子となる娘 Minona (1813-1897) が生まれている。
Josephine と彼女の 2 人目でその時の配偶者であった Christoph Adam von Stackelberg 男爵 (1777-1841) との夫婦関係は、この時全く破綻した状態であった。そして Stackelberg は 1812 年 6 月中に、Josephine と子供達を残して Wien を去っている事が分かっており、また Minona の生まれた 1813 年 4 月 8 日というのが、前年の 7 月 3 日に Beethoven が Praha に於いて „Unsterbliche Geliebte” に邂逅してから丁度 9 箇月目に当たる事から、Minona の実際の父親は Beethoven なのではないかという推測が提示されている。

 大変珍しい Minona という名前に関しては、Josephine が文学の知識に関して大変高い教養を持っていた事から、1774 年に出版された Johann Wolfgang von Goethe (1749-1832) による書簡体小説 „Die Leiden des jungen Werthers” (若きウェルテルの悩み) に拠るのではないかと考えられている。
この作品中では第 2 部後半のこの小説の山場に於いて、Lotte の求めに応じて主人公の Werther が彼の翻訳による „Ossian” の中の、„Die Gesänge von Selma” (Selma の歌) という詩を朗読するという場面がある。

 „Ossian” はケルト人の神話に登場する Oisín に着想を得て、Scotland の詩人で政治家の James Macpherson (1736–1796) によって書かれた叙事詩であり、„Die Gesänge von Selma” というのはその作品中で、Ossian の父親に当たる Fingal 王 (神話では伝説の英雄 Fionn mac Cumhaill) の城塞 Selma (sealladh math) の、竪琴の響きで満たされた祝祭の広間に於いて歌われる歌を指している。
この歌は Colma がその恋人の Salgar によって自身の兄が討たれた悲しみを表現したものだが、この歌をケルト人歌手で宮廷詩人の娘 „Minona” が歌う。

 また Josephine のこの娘は通称 Minona と呼ばれているが、正式な名前は Maria Theresia Selma Arria Cornelia Minona と称する。
この内の Maria Theresia は彼女の名付け親で、Josephine の姉の Therese Brunsvik de Korompa 伯爵夫人 (1775-1861) を指しているが、それに続く „Selma” という名が注意を引く。
また „Minona” を逆から読むと anonim という発音になるが、これと同じ発音の anonym という言葉は匿名、無名を意味し、ひいては 「匿名の父親」 を意図しているのではないかと考えられている。

 1812 年以降にも Josephine と Beethoven の間に時折、直接又は間接的な接触があった事が現在では分かっている。
1816 年の夏双方共に Wien 南方郊外の Baden に滞在しており、また同年秋にはドイツ北方の温泉保養地の Bad Pyrmont に滞在する事を 2 人は計画している。
Josephine に対しては Bad Pyrmont 行きを許可する旅券が同年 8 月 3 日に発給されているが、一方同月の日記に Beethoven は、「 P – t [Pyrmont] に行くのではなく、P. – と話し合わなければ。それが一番良いだろう」 と書いている。
この 「P. –」 とは Josephine の愛称の 「Pepi」 を意味している。
この時 Beethoven は親代わりとして面倒を見ていた甥の、Karl van Beethoven (1806-1858) が鼠径ヘルニアの手術を受ける事となった為に、この Josephine との計画を断念せざるを得ない状況となっていた。

 

 


Ludwig van Beethoven
による
日記の原文は省略
日本語訳及び [ ] 内の補注は執筆者による

 

 


この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 16«
[Archiv / Musik 2019 Nr. 7]
へ続く

 

 


上部の写真:


Johann Wolfgang von Goethe が
友人の Johann Heinrich Merck (1741-1791)
を校訂者として共同出版した
„Works of Ossian”

第 1 巻と第 2 巻の扉の版画は
Goethe 自身が制作した


1773 年に
Darmstadt に於いて出版された初版

 

 

 

 

 

 

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