Musik

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93

 


Teil 39

 

 

 

 

 

 

 


»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 38«
[Archiv / Musik 2022 Nr. 5]
より続く

 

 Ludwig van Beethoven (1770-1827) が自作品の London に於ける出版を目指して、同郷の出身でその頃 London に於いて Violine 奏者、及び興行師としても活動していた Johann Peter Salomon (1745-1815) に宛てて、London の楽譜出版業者への仲介を依頼する為に 1815 年 6 月 1 日に書いた手紙では、嘗て Wien に於いて知り合う機会のあった Johann Baptist Cramer (1771-1858) が、Beethoven の作品に対して否定的な意見を公にしたという事に触れているが、それでも若し Cramer が London に於ける出版権を買うならば、どこかその他の出版社に売り渡すよりは、自分にとってはより望ましいという気持ちを表明している。

 Beethven と Cramer は、Cramer が 1799 年から翌年に掛けて大陸を巡る演奏旅行を行った際に、Wien に於いて知り合っているが、Beethoven は後に Cramer に関して、数多の Klavier 奏者がいる中で唯一彼だけが素晴らしい奏者であり、それ以外の者は全て彼には劣ると、Cramer を大変高く評価していた。

 親に連れられて家族で故郷の Mannheim から London に移住し、その後そこで Klavier 奏者としての活動を行っていた Johann Baptist Cramer は、1805 年に „Cramer & Keys” という会社を設立して音楽出版業も同時に営み始め、1810 年には Samuel Chappell (ca. 1782–1834) と協同で、楽譜出版及び Klavier の製造と、その他の楽器の貸し出しと販売も行う、„Chappell & Co.” を London の中心街にある Bond Street に設立していた。Cramer と Chappell との共同経営関係はこの後 1819 年迄続く。

 その後一旦音楽事業から手を引いていた Cramer は 1824 年になると、Robert Addison、Thomas Frederick Beale と共に „Cramer, Addison & Beale” という会社を興して、再度楽譜出版と楽器の製造販売業を始める。
„Cramer, Addison & Beale” は後に „Cramer & Co.” に改称されているが、Cramer 自身は 1833 年末に同事業の経営から手を引いている。
その後この会社は度々所有者を変え、名称もその都度少しずつ変更されて行ったが „Cramer” の名前は、1911 年に設立された Klavier 製造会社の Kemble & Co. によって、1964 年に買収される迄常に残された。
この Kemble & Co. は 2007 年に Yamaha Corporation によって買収され、現在はその経営傘下にある。

 Beethoven は Salomon に宛てた手紙の中でこの Cramer の件に続いて、摂政王太子 [George Augustus Frederick (1762-1830)、1820 年より England 国王 Georg IV.] に送った „Wellingtons Sieg oder die Schlacht bei Vittoria” [Wellington の勝利、又は Vittoria の戦い、op. 91] の [総譜の写し作成の為の] 少なくとも写譜費用だけでも、どの様にしたら摂政王太子から得る事が出来るか教えて貰えないだろうかと頼んでいる。

 Beethoven はこの作品の総譜を、摂政王太子に献呈させて頂きたいという所願と共に London に送付していたが、England の宮廷はそれに対する返事はおろか、当時の習慣としては普通の事であった、恩賞か又は謝金を与える等の反応をその後 Beethoven に対して一切する事が無かった。

 ところがこの作品は既に 1815 年 2 月 10 日と 13 日に London の Drury Lane Theatre に於いて、George Smart (1776-1867) の指揮の下に上演が行われており、その公演は大きな成功を収めたという事が London だけでは無く、Wien に於いても翌 3 月 2 日付の Wien 新聞紙上で報じられている。尚悪い事に、Beethoven は摂政王太子からの返事を得てから England での楽譜の出版をするつもりで、長い間無駄に待ち続けていた訳だが、その間に既に同作品の第三者による Klavier 編曲譜が、London に於いて印刷されて出回っているという噂が Beethoven の耳に入って来た。

 Beethoven は Salomon に対してこの手紙の中で、「劇場はその作品の上演で十分な利益を得ているでしょうけれど、その作者はそれについて何の挨拶の手紙さえも受け取っていません。まして写譜費用はおろか、それに加えて [この作品から得る事の出来る] 利益を全て失ってしまう事になります。何故なら、若し Klavier 編曲譜の印刷が事実であるなら、それを基にして大陸のどこかの出版社による更なる London 版の複製が間も無く現れるでしょうから、その出版権を [敢えて] 買おうという様な大陸の出版社は無いでしょう。そして自分は名誉と報酬を失ってしまう事になるのです」 とその深刻な窮状を訴えている。

 

 


Beethoven
による
Johann Peter Salomon に宛てた
手紙の原文は省略
日本語訳及び [ ] 内の補注は執筆者による

 

 


この先は次回
»Symphonie Nr. 8 in F-dur, op. 93 Teil 40«
[Archiv / Musik 2022 Nr. 7]
へ続く

 

 


上部の写真:

Beethoven が
London の Johann Peter Salomon に
宛てた手紙


第 1 頁

1815 年 6 月 1 日付

 

 

 

 

 

 

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