Musik 2023 Nr. 5

 

 

 


Ludwig van Beethoven

 

 


Leonore / Fidelio

 


Teil 5

 

 

 

 

 

 

 


»Leonore / Fidelio Teil 4«
[Archiv / Musik 2023 Nr. 4]
より続く

 

 1790 年 2 月 20 日に Habsburg 家の啓蒙君主として知られ、Köln 選帝侯 Maximilian Franz von Österreich (1756-1801) の長兄に当たる、皇帝 Joseph II. (1741-1790) が結核で亡くなり、その知らせはそれから 4 日後の 2 月 24 日に Bonn にもたらされる。そこで Bonn 読書静養協会は翌 3 月 19 日に追悼式を催す事を決め、それには選帝侯 Maximilian Franz も出席する事となった。

 その際に Bonn 大学に於ける美学と文学の教授で、同時に Gymnasium の教授でもあった Eulogius Schneider (1756-1794) が追悼講演を行う事となったが、それに先立って 2 月 28 日に行われた予備協議の場に於いて Schneider は、自身の講演の前か後で何か音楽的なものを演奏して貰いたいが、Kantate なら素晴らしい効果を上げるであろう事、そして今日地元の若い詩人がその為の歌詞を持って来たので、後はそれに協会の会員か或いはそれ以外の者でも誰か、それに相応しい音楽家が作曲をするという苦労を引き受けて貰えればという希望を述べた。

 Bonn 読書静養協会というのは、1787 年 12 月 1 日にこの時代の特徴である啓蒙思想の下に、Bonn 在住の教養階級を代表する人々によって、18 世紀中に次第にそれ迄の教養と知識の中心という地位を喪失して行った、各地の修道院に代わるものとして創設されたもので、創設時の会員には Ludwig van Beethoven (1770-1827) の師で、Hoforganist の Christian Gottlob Neefe (1748-1798)、宮廷楽団 Horn 奏者の Nikolaus Simrock (1751-1832)、Beethoven が Violine を習った同じく宮廷楽団員の Franz Anton Ries (1755-1846)、宮廷顧問官の Bernhard Franz Josef von Gerolt (1747-1828) や、前述の Eulogius Schneider 等がいる。
又創設から未だ間も無い翌年初頭には、選帝侯 Maximilian Franz が協会の後援者となり、名誉会長に就任している。

 1788 年から同協会の会員となった、宮廷枢密顧問官の Ferdinand Ernst von Waldstein-Wartenberg 伯爵 (1762-1823) は、Beethoven にとっての重要な後援者の 1 人であったが、彼を始めとして Beethoven との重要な繋がりのある人物が会員の中に何人もおり、Schneider が希望した追悼式の為の音楽の作曲は、当時 19 歳の Beethoven に委嘱される事となった。
Schneider が先に言及した地元の若い詩人とは、聖十字架修道士会に属し、Bonn 大学神学部の学生で当時 24 歳の、Severin Anton Averdonk (1766-1817) であった。

 Schneider は Joseph II. の悲報が Bonn に届いた 2 日後に、その死を悼む悲歌を発表していたが、その作品から閃きを得た Averdonk は、更に 2 日で „Ode auf den Tod Josephs und Elisens” (Joseph と Elise の死への頌歌) を書いて Schneider に渡している。
この頌歌で Joseph と並べられている Elise というのは、Elisabeth Wilhelmine Louise von Württemberg (1767–1790) の事を指している。

 2 度結婚したもののその配偶者を 2 人共痘瘡で失い、それ以降後継者を得る為の結婚を拒否した皇帝 Joseph II. は、甥の Franz Joseph Karl 大公 (1768-1835) を自身の後継者として定めると、更にその将来の帝妃となる人物も探し始め、1782 年にその為に選び出した未だその時 15 歳であった、Württemberg 公爵 Friedrich Eugen (1732-1797) の 3 女、Elisabeth Wilhelmine Louise を Wien に呼び寄せると、自身の子の様に可愛がってその教育にも心を尽くした。
1788 年 1 月 6 日に Elisabeth Wilhelmine Louise と、1 歳年下の Franz Joseph Karl 大公との結婚式が行われ、その翌年 Elisabeth は妊娠するが、既にその頃絶えず悪化する一方であった Joseph II. の病状への不安も影響して、大変不安定な状態が続いた。

 翌 1790 年 2 月 15 日に Joseph II. に対して終油の秘蹟が行われると、それ迄大変不安定な妊娠状態の為に、Elisabeth が Joseph II. に面会する事は許されていなかったが、この日は Joseph II. の計らいによって部屋を薄暗くして Elisabeth を迎え入れた。それにも拘らず末期症状の Joseph II. の思わぬ様子に衝撃を受けた Elisabeth は、その場で気を失って倒れてしまう。
その 2 日後に Elisabeth は予定よりも早く Ludovika Elisabeth を出産するが、その出産が原因で Elisabeth はその翌 18 日に 22 歳の若さで亡くなり、更にその 2 日後には Joseph II. も亡くなっている。この時生まれた娘の Ludovika Elisabeth も、翌 1791 年 6 月 24 日迄の短い命であった。

 

 


Eulogius Schneider
による
予備協議に於ける発言の記録の原文は省略
日本語訳は執筆者による

 

 


この先は次回
»Leonore / Fidelio Teil 6«
[Archiv / Musik 2023 Nr. 6]
へ続く

 

 


上部の写真:

Josephs II. の Elysium への到着


Wien で大変成功した
版画家で彫刻家
Hieronymus Löschenkohl (1753-1807)
による
彩色銅版画

1790

 

 

 

 

 

 

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