Memorandum 2021 Nr. 6
Über Österreich und Wien
Kurfürst
Teil 68
選帝侯 (第68回)
»Kurfürst Teil 67«
[Archiv / Memorandum 2021 Nr. 5]
より続く
Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。
Italia 半島北部に於ける覇権を目指す争いという様相を明確に示す事となった、Mantova 公国及び Monferrato 公国の後継権を巡る France 王国と Habsburg 家による争いでは、France 王国軍が城塞の防備に時間を費やし過ぎてしまうという失策があったが、それ以上に Pest の蔓延という不幸に見舞われるという事も加わり、Venezia 共和国からの Mantova 防備の為の援軍が撃退された事によって、Mantova 公国の首都 Mantova は 1630 年 7 月 18 日に陥落する。
その僅か半月前の同月 3 日より Regensburg に於いて開催された選帝侯会議の場で、この戦争を終結させる為の和平交渉が始められたのが、Mantova の陥落から僅か 1 箇月後であったというのは、もう暫くの間見守っているだけで完全な勝利が目前に迫っていた、この時絶対的に有利な立場にあった皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) に対して、France 王国の首席大臣 Richelieu 公爵及び枢機卿 Armand-Jean du Plessis (1585-1642) にとっては、交渉に臨むには極めて不利な状況の下に置かれる事となった。
Richelieu 公爵より交渉を委ねられた France 王国の使節が、この時和平の条件として Ferdinand II. に求めたのは、Gonzaga 家の分家ではあったものの France 国王の家臣であった、Nevers 公爵及び Rethel 公爵 Carlo I. Gonzaga (1580-1637) を、正式な Mantova 公爵及び Monferrato 公爵として認め、彼に Ferdinand II. が Mantova 公国及び Monferrato 公国を封土として与えるというものであった。しかしこの France 側による要求の内容は、France が戦争に於いて多少なりとも勝利を収めた場合に初めて求める事が出来るものであって、この時の France 王国が置かれていた状況下に置いては、全く認められる事柄では無かった。
しかしこの全く常軌を逸した France の要求に対して Ferdinand II. は、それを場合によっては受け入れても良いという意向を示す。但しその際に Ferdinand II. が求めた条件は、France 王国の神聖 Roma 帝国に対する 「全面的和平」 であった。具体的にこれが意味するのは、神聖 Roma 帝国に対して直接的に、或いは帝国の敵対国を支援する事によって間接的に、戦争を仕掛ける事をしないという事であった。
これは大変広範囲に及ぶ要求であって、若し France 王国がこれを受け入れて実行に移せば、Ferdinand II. にとっては帝国を取り巻く数々の前線に於ける大きな負担が一気に軽減されるという事を意味した。
例えば Italia 半島の覇権を巡る France 王国との長年に亙る戦争はこれで終結する事になり、また今回の選帝侯会議が開会した僅か 3 日後の 7 月 6 日に、Pommern 公国 Usedom 島の Peenemünde に、Sweden 国王 Gustav II. Adolf (1594-1632) の率いる 13,000 の Sweden 王国軍が上陸侵攻しており、それは間も無く 40,000 の兵力に迄増強されていたが、その Sweden 王国軍は最早 France 王国からの支援金を得る事が叶わなくなる等、Ferdinand II. の明白な勝利へと確実に繋がるものであった。
しかしこの時選帝諸侯達は、Ferdinand II. の提案した条件は却って平和を脅かすことになると考えて、Ferdinand II. に対して和平交渉の為にその条件に拘らない様にと提言を行った。またこの 「全面的和平」 の条項が実行されれば、それ迄の France 王国とプロテスタント勢力の各国との同盟関係が終焉を迎える事になるにも拘わらず、Vatikan の 法王庁からの使節もその条項に関しては、これを暗黙の裡に容認はしたものの、それ以上に進んで和平交渉に於いて Ferdinand II. を積極的に支援するという事は行わなかった。
そもそもこの時の選帝侯会議に出席していた選帝侯以外の帝国領域外の国々からの使節は、Ferdinand II. が提案した 「全面的和平」 条項の受け入れを最終的に決定する代理権を委ねられていなかったという根本的な問題があったが、France 王国から派遣された使節を代表していた Richelieu 公爵の告解師で、Kapuzin 派修道士の Père Joseph (1577-1638) は、若し関係国の間で十分な折衝を経た上であれば、France 国王は和平の為の署名を必ず行うでしょうと皇帝に告げて、諦める事無く交渉を継続した。
その Père Joseph による努力が功を奏し、同年 10 月 13 日に Regensburg の和議が締結される事となる。
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»Kurfürst Teil 69«
[Archiv / Memorandum 2021 Nr. 7]
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上部の写真:
Ferdinand II.
5 Dukaten 金貨
1627