Kommentar 2021 Nr. 3
Ludwig van Beethoven
und
seine Zeit
Antonio Salieri
Teil 31
»Antonio Salieri Teil 30«
[Archiv / Kommentar 2021 Nr. 2]
より続く
Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について
Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) の聖別に参列した翌 1792 年になって、Antonio Salieri (1750-1825) が先ず取り組んだのは 2 幕の Dramma eroicomico „Catiline” であったが、台本は Italia の詩人で風刺作家の Giovanni Battista Casti (1724-1803) が担当している。
Casti は既にこれに先立って Salieri が夫々作曲した、2 幕の Dramma giocoso „La grotta di Trofonio” (Trofonius の洞窟)、1 幕の Divertimento teatrale „Prima la musica poi le parole” (最初に音楽、それに次いで言葉) と、2 幕の Dramma eroicomico „Cublai, gran kan de’ Tartari” (Tatar の皇帝 Cublai) に於いて、台本の執筆により Salieri との共同作業を行っていた。
Casti がこの „Catiline” の台本作成に於いて採り上げたのは、紀元前 63 年に Roma 帝国法務官の Lucius Sergius Catilina (108 B.C. – 62 B.C.) が Roma に於いて、武力による政変を企てたが密告によって失敗に終わった叛乱及び陰謀の史実であり、この作品に於いては Catilina、Cicerone や Catone を始めとする全ての役名に実在の人物名がそのまま使われており、その台本の内容に於いては Casti 特有の政治的に辛辣な表現が随所に用いられている。
しかしこの作品は Casti や Salieri の存命中に初演を迎える事は無く、漸くその初演が行われたのは作品完成から 2 世紀後の 1994 年 4 月 16 日に、Darmstadt の Hessen 州立劇場に於いてであった。
„Catiline” に次いで Salieri が取り組んだのは、2 幕の Dramma giocoso „Il mondo alla rovescia” (逆さまの世界) であったが、この作品は Carlo Goldoni (1707-1793) が 1750 年に台本を書き、Baldassare Galuppi (1706-1785) によって作曲され、同年 11 月 14 日に Venezia の Teatro San Cassiano に於いて初演された、3 幕の Dramma giocoso „Il mondo alla roversa ossia Le donne che comandano” (逆さまの世界、又は命令する女性) に基づいて、Caterino Mazzolà (1745-1806) が改めて執筆した „L’isola capricciosa” (気まぐれな島) への音楽として、 既にこれに先立つ 1779 年に Salieri によって作曲が開始されていた。
1779 年に自作の舞台作品を発表し乍ら、Venezia、Milano、Roma や Napoli 等の Italia 半島の各地を移動していた Salieri は、この „L’isola capricciosa” を Venezia で上演する為に書き始めていたが、当地の興行主の急死によってこの企画は中止され、その作品も作曲途中でそのまま放置されていた。
Salieri は „Il mondo alla roversa” の作曲の開始に先立つ 1778 年に、2 幕の Dramma giocoso „La scuola de’ gelosi” (嫉妬の学校) に於いて Mazzolà と初めて共同作業を行っており、その初演が行われた Venezia に限らず、Italia のその他の各地に於いてもこの作品が大変大きな成功を収め続けた事がきっかけとなり、Mazzolà は Salieri の推薦によって 1780 年に、Dresden の宮廷に於ける Sachsen 選帝侯 Friedrich August III. (1750-1827) の宮廷詩人として採用されている。
一方 Wien に於いてはその後皇帝 Joseph II. (1741-1790) が 1790 年 2 月 20 日に亡くなり、同年 10 月 8 日に皇帝位をその弟の Leopold II. (1747-1792) が継いでいるが、この帝位継承の際に宮廷人事の全般的な見直しが行われ、それ迄伊語劇場担当の帝室詩人を務めていた Lorenzo Da Ponte (1749-1838) は解任される事となった。
そもそも Mazzolà が Venezia で活動を行っていた 1770 年代の中頃に、当地出身の Da Ponte と知り合ってこの両者はそれ以降大変親密な関係を築く事となったが、Mazzolà が宮廷詩人として Dresden に移った年の翌 1781 年に、彼は Salieri に Da Ponte を引き合わすという事をしていた。
Salieri が Da Ponte と知り合った後、1729 年以来の大変長期に亘り Wien の宮廷詩人を務めていた Pietro Metastasio (1698-1782) が、1782 年 4 月 12 日に亡くなった事によって Wien の宮廷詩人の地位が空席となり、その後任の人物が求められた機会に Salieri は、その前年 Mazzolà に紹介されていた Lorenzo Da Ponte を皇帝 Joseph II. に推薦している。その結果翌 1783 年に Da Ponte が伊語劇場担当の帝室詩人として、Wien の宮廷に採用されるという経緯があった。
この先は次回
»Antonio Salieri Teil 32«
[Archiv / Kommentar 2021 Nr. 4]
へ続く
上部の写真:
„La découverte de la conspiration catilinarienne”
(Catilina の陰謀の露見)
Roma の元老院に於いて
Lucius Sergius Catilina
の陰謀を糾弾する
Roma 帝国執政官
Marcus Tullius Cicero (106 B.C. – 43 B.C.)
France の彫刻家 Jean Guillaume Moitte (1746-1810)
の彫刻作品に基づいた
France の版画家 Jean-Francois Janinet (1752-1814)
による銅版画
1792