Memorandum 2021 Nr. 5
Über Österreich und Wien
Kurfürst
Teil 67
選帝侯 (第67回)
»Kurfürst Teil 66«
[Archiv / Memorandum 2021 Nr. 4]
より続く
Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。
1630 年の春になると、Jean de Saint-Bonnet de Toiras (1585-1636) の指揮する France 王国軍が駐屯していた Monferrato 公国の首都 Casale は再度、今回は Los Balbases 侯爵 Ambrosio Spinola Doria (1569-1630) の率いる España 王国軍による包囲戦に晒される。
しかしこの頃次第に感染が拡大して行った Pest の影響と、それに伴って供給面での困難さも増して行くという状況の下に、両軍共に大変厳しい状態に置かれていた。
こうして Casale を巡る攻防が膠着状態にあって進展を見せる事が出来なかった時、和平に向けた働き掛けが Vatikan より起こり、法王 Urban VIII. (1568-1644, 在位 1623-1644) の特使を務めた Jules Mazarin (1602-1661) の働きによって、先ずその前段階としての停戦協定が 1630 年 9 月 4 日両軍の間に結ばれた。これによって España 王国軍は市域への城門と城壁の砦への出入りが認められ、一方 France 王国軍は Casale の城塞へ退却して部隊を保全する事が出来る様になった。
これより少し後の同年 9 月 25 日に、España 王国軍を率いて来た Ambrosio Spinola Doria が Castelnuovo Scrivia に於いて亡くなるが、それを以て España 王国軍が退却するという事態にはならなかった。
翌 10 月になると Nanteuil-le-Haudouin 伯爵 Henri de Schomberg (1575-1632) の率いる France 王国の援軍が、Monferrato 公国の Asti を経由し、Casale を目指して進軍して来た。そして同月 26 日に遂に Casale に於いて両軍が対峙して、いよいよ España 王国軍と France 王国軍による戦闘の開始が最早不可避と思われる状況となった。
一方この年には帝国大宰相の Mainz 選帝侯 Anselm Casimir Wambolt von Umstadt (1579-1847) によって、3 年振りとなる選帝侯会議が Regensburg に於いて招集され、同年 7 月 3 日に行われた皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) による勅語奉読を以て討議は開始された。今回の選帝侯会議には 5 人のカトリックの選帝諸侯と、Sachsen 及び Brandenburg のプロテスタントの選帝侯国からは夫々その使臣が出席し、それ以外に帝国領域外の国々からの使節もそれに加わっており、France 王国の首席大臣 Richelieu 公爵及び枢機卿 Armand-Jean du Plessis (1585-1642) からはその使節として、Paris の司教座聖堂参事及び Joyenval と Neauphle-le-Vieux の修道院長で外交官でもあった Charles Brûlart de Léon (1572-1649) と、Richelieu 公爵の告解師で Kapuzin 派修道士の Père Joseph (1577-1638) の 2 人が、この時の選帝侯会議に派遣されていた。
この会議に於いては、Ferdinand II. の後継者を定めるという意味になる Roma ドイツ王の選挙も含めて、様々な時事の帝国に関する問題が討議されたが、後継者を巡って戦争状態にあった Mantova 公国及び Monferrato 公国に関しては、その戦争終結と和平に向けた交渉が行われた。
Italia 半島北部の覇権を巡る France 王国と、それに対して皇帝を輩出している Austria 大公国及び España 王国の両 Hagsburg 家の争いという意味であった、この Mantova 公国と Monferrato 公国の後継権を巡る争いに於いては、この会議が開会されて間も無い 7 月 18 日に Mantova が陥落していたという事実によって、それから殆ど 1 箇月しか経過していない両陣営による和平交渉が Regensburg に於いて開始された時点では、戦況は間も無くの France 王国の完敗が殆ど推定されるという、France の首席大臣 Richelieu 公爵にとっては大変望ましく無い状況の下にこの交渉に参加するという事になった。
Ferdinand II. にとってはそのまま只もう少し戦況を見守っているだけで、間も無く España 王国軍と皇帝軍の完全な勝利がもたらされるという状況ではあったものの、既に帝国内に於いてかなり広大な領域を支配下に置いていた、Wien と España の両 Habsburg 家の更なる覇権拡大を危惧した選帝諸侯の強い働き掛けによって、止む無く Ferdinand II. はこの時 Père Joseph を今回の交渉の中心人物とする、France 王国の使節との和平交渉に臨む事を受け入れた。
この先は次回
»Kurfürst Teil 68«
[Archiv / Memorandum 2021 Nr. 6]
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上部の写真:
Casale の城塞の遺跡
Germanico Savorgnan (1554-1597)
の監督によって
1590 年に建築が開始され
1595 年に完成
Germanico Savorgnan は
建築家、軍事技術者で砲兵軍将帥
また
皇帝 Rudolf II. (1552-1612) の軍事顧問
Casale の城塞建築の為に
Mantova 公爵及び Monferrato 公爵 Vincenzo I. Gonzaga (1562-1612)
によって
Monferrato に招聘される