Memorandum 2022 Nr. 1
Über Österreich und Wien
Kurfürst
Teil 71
選帝侯 (第71回)
»Kurfürst Teil 70«
[Archiv / Memorandum 2021 Nr. 8]
より続く
Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。
1630 年 7 月 3 日より同年 11 月 12 日迄の期間 Regensburg に於いて開かれた選帝侯会議は、これに先立つ 1629 年 3 月 6 日に皇帝によって発令された復旧勅令、及び同年 5 月 22 日に神聖 Roma 帝国と Denmark 王国との間に締結された Lübeck の和約によって、Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) との戦争は、帝国の全面的勝利を以て終結していた事から、この時皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) はその勢力の頂点にあり、彼にとって最も都合の良い時期に開催されたと言う事が出来る。
今回の選帝侯会議は、帝国大宰相の Mainz 選帝侯 Anselm Casimir Wambolt von Umstadt (1579-1847) によって 1630 年 3 月 4 日に召集が発布された。カトリックの選帝侯は本人が会議に出席したのに対して、Sachsen 選帝侯 Johann Georg I. (1585-1656) と、Brandenburg 選帝侯 Georg Wilhelm (1595-1640) はその使臣が出席している。
この時の選帝侯会議には彼等以外に France 王国の外交使節として、Père Joseph (1577-1638) と、1620 年迄駐 Venezia 共和国大使を務めていた、Paris 司教座聖堂参事の Charles Brûlart de Léon (1572-1649) 等が参加していた。
Père Joseph が中心的役割を演じた France 王国使節団は、権勢を極める皇帝に対抗する為に、Denmark 王国を始めとするプロテスタント勢力に対する戦いで皇帝軍を率いて大きな戦功を挙げていた、Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) の召還や、皇帝を帝国諸侯勢力の中で孤立させる事を目指して、会議の舞台裏に於いて選帝諸侯に対する宣伝工作を積極的に行った。
また期せずしてこの時の会議が開会された 3 日後の 7 月 6 日に、Sweden 国王 Gustav II. Adolf (1594-1632) の率いる 13,000 の Sweden 王国軍が、Pommern 公国 Usedom 島の Peenemünde に上陸侵攻を開始していたが、Père Joseph はこの時の Sweden 軍の軍事介入の際に Gustav II. Adolf に対して助言を行っており、それはまるで彼が Sweden 王国陸軍大臣の役目を務めている様なものであった。
一方皇帝 Ferdinand II. がこの会議に於いて最大の目的としたものは、彼の権勢の高まる勢いに乗じて、この時存命していた彼の息子の中で長子であった Ferdinand Ernst (1608-1657) を Roma ドイツ王に選出させて、自身の後継者を確立する事であったが、それに加えて Nederlanden 連邦共和国と、Mantova 公国及び Monferrato 公国を巡る戦争に関しては、France 王国に対する皇帝軍の為に帝国の軍事援助を得るという事であった。
しかし Bayern 選帝侯 Maximilian I. (1573-1651) はカトリック側ではあったものの、皇帝の更なる権力の増大化と、Wallenstein の率いる皇帝軍の強大な軍事力を危惧せずにはおれず、その結果 Ferdinand II. は本来ならば皇帝側の立場にあったカトリック諸侯にも対峙する事となり、彼等は皇帝軍の縮小化、戦争負担の軽減、及び Wallenstein の解任を要求するという事になった。
Ferdinand II. は自身の要求を押し通してひいては帝国内に於ける政治的権力基盤を失う事になるのはどうしても回避したかったので、選帝諸侯の要求に大幅に譲歩せざるを得ず、その結果 Wallenstein は解任される事となり、皇帝軍はこの時 Sweden 王国に対する危機に直面していたにも関わらず縮小され、その指揮権はカトリック連盟軍を率いていた Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) が同時に持つ事とされた。
また Mantova 公国及び Monferrato 公国を巡る戦争では、皇帝軍が明らかに有利な戦況にあったにも関わらず、France 王国との和平締結を強いられ、Ferdinand Ernst の Roma ドイツ王への選出は拒否された。更に復旧勅令に関しては、帝国諸侯の自律的自由侵害の恐れがあるとして、その施行が停止される決定が下された。
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»Kurfürst Teil 72«
[Archiv / Memorandum 2022 Nr. 2]
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上部の写真:
Ferdinand II.
銅版画
ca. 1620