Memorandum 2023 Nr. 5
Über Österreich und Wien
Kurfürst
Teil 83
選帝侯 (第83回)
»Kurfürst Teil 82«
[Archiv / Memorandum 2023 Nr. 4]
より続く
Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。
1631 年 9 月17 日に Sachsen 選帝侯国領 Leipzig 北方郊外の Breitenfeld 村と Seehausen 村の間の地域で対峙した、Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) の率いる Katholik 連盟軍と、Sweden 国王 Gustav II. Adolf (1594-1632) の指揮する Sweden 王国軍及び、Sachsen 選帝侯 Johann Georg I. (1585-1656) の率いる、Sachsen 選帝侯国軍による連合軍との間の戦いは、Katholik 連盟軍の大敗を以て終わる。
1618 年以降続く Katholik と Protestant 勢力との間の戦いに於いて、皇帝の後援を受けた Katholik 連盟軍にとっては、この時が初めて経験する大規模な敗北となった。その損失は戦いの後に生き残った兵士達が戦場から逃避する間にも殺害された事によって更に高まり、Sweden 王国軍の戦死者数が凡そ 2,500、Sachsen 選帝侯国軍が 1,500 であるのに対して、Katholik 連盟軍の死者数は凡そ 12,000 人、捕虜になった者が 7,000 人という大変大きな損害を Katholik 連盟軍は被り、それ迄は Katholik 勢力側の最も功績の大きい部将であった Tilly 伯爵は、この時最大の敗北者となった。
これ迄大きな流れとしては常に敗戦を重ねて来た Protestant 勢力にとって、今回の Katholik に対する初めての大きな勝利は、Protestant へ改宗した国々の Katholik と皇帝からの垂涎の解放を意味し、これを広く知らせる為に大量の散らしが作成されて、Protestant 勢力の全地域に広く配布される事となった。
又 1629 年に皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) によって発布された、帝国内教会領の支配状況を、1552 年 8 月 2 日に Passau 条約が締結された時点の状態に戻すという復旧勅令は、最早皇帝によって施行される事は実際上不可能な状況となり、勅令としては最早意味を持たないものとなった。
しかし敗戦によるこの大規模な喪失にも関わらず Tilly 伯爵は、この戦いの結果 Sweden 王国軍の更なる南進によって脅かされる事になる Bayern 公国を守る為に、戦場から北西に凡そ 100 km 程離れた、1625 年と 1629 年の 2 度に亘って、皇帝軍大元帥の Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) によって攻め落とされている Halberstadt に於いて、生き残った 13,000 人程の兵士達によって軍勢を立て直す事が出来ている。
一方 Sweden 王国軍は、この戦いの結果得た凡そ 7,000 人に及ぶ Katholik 連盟軍の傭兵の捕虜を、これ以降は自軍の勢力に加える事が出来る為に、それだけで兵力が今迄よりも増強される事となったが、それに加えて既に同盟関係にあった Mecklenburg 公爵 Johann Albrecht II. (1590-1636)、Mecklenburg 公爵 Adolf Friedrich I. (1588-1658)、Sachsen-Weimar 公爵 Wilhelm (1598-1662)、Sachsen-Weimar 公爵 Bernhard (1604-1639)、更に Hessen-Kassel 方伯 Wilhelm V. (1602-1637)、August der Jüngere von Braunschweig (1579-1666、1635- Braunschweig-Wolfenbüttel 侯爵) 等を始めとする Protestant 側の帝国諸侯が、Sweden 王国軍に加わって軍勢は拡大した。
更にそれ以外にも志願兵として Sweden 王国軍に参集して来る者も多かったが、この年の 1 月 23 日に Bärwalde に於いて France 王国との間に締結されていた同盟条約によって、Sweden 王国軍は軍事資金を France 王国より得ていた為に、彼等も自軍の勢力として雇う事が出来、その結果 Sweden 王国軍の総兵力は合計で凡そ 80,000 人に迄達する事となった。
これに対して皇帝軍及び Bayern 王国軍の援軍となる筈であった España 王国軍は Rhein 河左岸に駐屯していたが、皇帝との同盟国であった Lothringen 公国を France 王国軍が突然占領し、又 Rhein 河右岸には Sweden 王国軍が進駐して来た事から、非常に不安定な状況に追い込まれた。
それに加えて Rhein 河に面する Köln 選帝侯国と Trier 選帝侯国が、そこを通って Bayern 公国へ向かう為の España 王国軍の領内の通過を拒否し、Protestant 側の Sweden 王国軍による自国の占領を回避する為に、Katholik の France 王国に保護を求めようとした。
この先は次回
»Kurfürst Teil 84«
[Archiv / Memorandum 2023 Nr. 6]
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上部の写真:
戦後 200 年を記念して
戦場跡に建造された
Gustav Adolf 記念碑
1831
戦後 250 年を記念して出版された
版画
1881