Musik 2023 Nr. 4
Ludwig van Beethoven
Leonore / Fidelio
Teil 4
»Leonore / Fidelio Teil 3«
[Archiv / Musik 2023 Nr. 3]
より続く
Köln 選帝侯 Maximilian Franz von Österreich (1756-1801) が 1784 年に Köln 大司教及び選帝侯位に就いた時には、前任者の Maximilian Friedrich von Königsegg-Rothenfels (1708-1784) の治世からの、かなり悪化した侯国の財政を受け継いだ事によって、何よりも先ずはその改善が課題であったが、それから 4 年が経過した頃には既に健全な財務状況になっていた。そこで Maximilian Franz は前任者の時代から計画はされていたものの未だ実現する事の出来なかった、国民劇場の創設に取り組み始める。
これ以前には Bonn の宮廷は独自の劇団を持っておらず、謝肉祭を中心とした期間に限って、客演としてこれ迄に幾つかの劇団と契約をして、Bonn に於ける公演を任せていた。
1787 年 11 月 1 日から謝肉祭期間の終わる翌年 2 月 5 日迄は、Christian Wilhelm Klos の劇団と契約していたが、この劇団が 1788 年の夏に倒産してしまい、同年 9 月にこの劇団が所有していた衣装、台本及び楽譜類がまとめて売りに出されると、Maximilian Franz はそれを 1,300 Gulden で全て買い取った。
又 10 人を超える Klos の劇団に所属していた俳優達と、更にそれ以上の人数の子役も含めた俳優達を新たに雇い入れた。その中には Ludwig van Beethoven (1770-1827) の Bonn に於ける師で上司となる、Hoforganist の Christian Gottlob Neefe (1748-1798) の娘の、Louise Neefe (1779-1846) と Felice Neefe (1782-) も含まれている。
この俳優達の多くは Oper の上演の際には歌手としても出演しており、その頃未だ子供であった Louise Neefe もその 1 人であったが、彼女は後に Amsterdam や特に Düsseldorf に於いては、主役を担う歌手としての活動を行っている。
これ等を母体としてこの時に創設された国民劇場の監督は、1785 年から Bonn の宮廷楽団の監督及び Konzertmeister であった、Joseph Reicha (1752-1795) が務め、Neefe は鍵盤楽器の演奏及び、Oper を上演する際には舞台監督を担った。
この新設された国民劇場の公演で演奏する Orchester と Bonn の宮廷楽団は、組織としては独立した別のものとして扱われているが、その中で実際に演奏している奏者は多くの者が重複している。又宮廷楽団の歌手が国民劇場で楽器を演奏したり、楽器奏者が歌手として登場する事もあった。
この頃の Bonn の Orchester には、音楽史上に度々登場して当時の名手としても知られている人物が何人も在籍しており、例えば Beethoven が 1785 年から翌年に掛けて Violine を習った Franz Anton Ries (1755-1846)、後の 1796 年に 2 人で演奏旅行中に Wien を訪れて、翌年の 1 月に Beethoven と共に演奏会を開いた事もある Violine 奏者の Andreas Romberg (1767–1821) と、その甥で Violoncello 奏者の Bernhard Romberg (1767-1841)、監督の Joseph Reicha の甥で Flöte 奏者の Anton Reicha (1770-1836)、Horn 奏者で後に音楽出版社 N. Simrock を創始する Nikolaus Simrock (1751-1832) 等を始めとして、優秀な奏者が多く集まっていた。
国民劇場創設の準備には 1788 年の全期間が費やされた。その会場としては、選帝侯宮殿の一角にある Komödienhaus が使用される事になったが、新たな国民劇場の為にその年に大規模な改装が行われている。
国民劇場創設の準備に時間を費やした為に 1788 年中の開場は叶わず、翌年 1 月 3 日が最初の公演日とされたが、その前日の深夜に選帝侯の葡萄畑を通って宮殿の庭園を取り囲む壁に至り、それを乗り越えて宮殿の敷地内に侵入した何者かによって、硫黄と藁を使ってこの劇場が放火されるという事件が起きた。幸いにも一部梁木等が燃えたものの、自然に火は消えて大事には至らなかった。
1 月 3 日の最初の公演は予定通り行われ、Vicente Martín y Soler (1754-1806) による 2 幕の Dramma giocoso „L’arbore di Diana” (Diana の木、1787) を、舞台監督で Hoforganist の Christian Gottlob Neefe が独語に訳した、„Der Baum der Diana” が上演された。
Beethoven は 2. Hoforganist の職と合わせて、この前年の 1788 年から Bonn の宮廷楽団の Viola 奏者として、又 1789 年からは国民劇場の Orchester に於いても同じく Viola 奏者として1792 年末迄務めており、選帝侯 Maximilian Franz が故郷の Wien も含めて各地から集めて来た、技術力の高い奏者達の集まった Bonn の Orchestre に於いて、この 4 年間の間に Orchester 音楽及び Oper や Singspiel 等の舞台作品を、実際に演奏する事を通して詳細に学ぶ機会を与えられた。
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[Archiv / Musik 2023 Nr. 5]
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上部の写真:
Bonn の選帝侯宮殿宮廷劇場
に於ける
Maskenball
Köln 選帝侯の宮廷画家
François Rousseau (ca. 1717-1804)
による油絵
1754