Kommentar 2021 Nr. 2
Ludwig van Beethoven
und
seine Zeit
Antonio Salieri
Teil 30
»Antonio Salieri Teil 29«
[Archiv / Kommentar 2021 Nr. 1]
より続く
Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について
1790 年 10 月に皇帝 Leopold II. (1747-1792) が即位し、音楽関係者の人事に於いても異動が行われた機会に、Antonio Salieri (1750-1825) は自身の願いによって、宮廷劇場の管理という重責からは解放される事となったが、その頃から彼と Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) との間に、懇意な関係が結ばれていた事を示す記録が残されている。
Salieri は 1771 年に当時の Wien の宮廷作曲家で、その翌年に宮廷楽長に就任する事になる Florian Leopold Gaßmann (1729-1774) によって設立された、„Wiener Tonkünstler-Sozietät” (Wien 音楽家協会) の会員であり、Mozart との親交が見られる様になるこの時期にはその会長を務めていた。この協会の主催によって 1791 年の四旬節期間中であった 4 月 16 日とその翌日に、宮廷劇場に於いて行われた演奏会では、Mozart による Symphonie が Salieri の指揮の下に演奏されている。
この時に演奏された Symphonie は „Eine große Sinfonie von der Erfindung des Hrn. Mozart“ (Mozart 氏の創作による大 Symphonie) として発表されているが、Mozart と大変親しかった Klarinette 奏者の Johann Nepomuk Stadler (1755-1804) がこの協会の会員であり、同じく Klarinette 奏者でその兄の Anton Stadler (1753-1812) と共に、度々この協会の演奏会に参加している事から、この時に演奏されたのは 1788 年に作曲された Symphonie in g-moll (KV 550) で、原曲の第 1 版にこの演奏会の為に 2 本の Klarinetten を加えて書き直されたその第 2 版であり、Stadler 兄弟がその声部を演奏したのであろうと推測されている。
また一方これより後の 1815 年から Salaieri に師事していた Austria の作曲家の Anselm Hüttenbrenner (1794-1868) は、Salieri が亡くなった 1825 年に、この時代の最も知られた音楽専門雑誌であった Leipzig の „Allgemeine Musikalische Zeitung” 誌上に於いて、Salieri は常に特別な敬意の念を以て Mozart の事を話していたが、彼によれば他者の追随を許す事の無い Mozart はこの頃しばしば Salieri の許を訪ねて、宮廷図書館に所蔵されている古い音楽の楽譜を所望し、Salieri と共に食事を摂る事も忘れてそれを読む事が珍しく無かったという内容の逸話を発表している。
1791 年 10 月 13 日に Mozart は、前月の 9 月 30 日の初演以来、Wien の Theater auf der Wieden に於いて好評の内に上演が続けられていた、2 幕の Singspiel „Die Zauberflöte” (魔笛, KV 620) の公演に Salieri を招待し、Salieri はこの作品を大変高く評価してその招待を大いに喜んだという事があった。
その後 „Die Zauberflöte” の公演では Papageno を演じ、その台本の執筆もしていた Emanuel Schikaneder (1751-1812) の Text による、Freimaurerkantate in C-dur für 2 Tenöre, Baß, 2 Violinen, Violen, Baß, Flöte, 2 Oboen und 2 Hörner „Laut verkünde unsre Freude” (我々の喜びを高らかに告げる、KV 623) の作曲を、それから凡そ 1 箇月後の 11 月 15 日に完成させ、その 3 日後の同月 18 日に自ら指揮をして演奏している。
この時の演奏が Mozart の公の場への最後の登場となり、その 2 日後に彼は病床に伏せてしまう。
それでも未だ委嘱を引き受けていた Requiem in d-Moll (KV 626) の作曲を続けたが、それを完成させる事は叶わぬまま、それから 2 週間後の 12 月 5 日に僅か 35 歳で息を引き取る。
Mozart が亡くなった翌日の 12 月 6 日にその遺体は Stephansdom へと運ばれたが、未亡人となった Constanze Mozart (1762-1842) とその遺児達の、その後の生活を配慮した Gottfried van Swieten 男爵 (1733-1803) の判断によって、同日午後 3 時より同大聖堂内では無く、その北面の Kruzifixkapelle (十字架礼拝堂) に於いて、出費を節約した大変質素な聖別が行われた。
この時の参列者は男性親族以外では、Mozart の後を継いで Stephansdom の楽長助手となり、その 2 年後には楽長に就任する事になる Johann Georg Albrechtsberger (1736-1809) と Salieri の 2 名のみであった。
Anselm Hüttenbrenner が
Allgemeine Musikalische Zeitung に発表した
記事の原文は省略
日本語訳は執筆者による
この先は次回
»Antonio Salieri Teil 31«
[Archiv / Kommentar 2021 Nr. 3]
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上部の写真:
Kruzifixkapelle 入口
Stephansdom
(Dom- und Metropolitankirche zu St. Stephan und allen Heiligen)